川中島古戦場 八幡社


長野県 長野市 小島田町

御祭神 : 誉田別尊 建御名方命
創建 : 平安時代中期




御由緒

祭神の誉田別尊は第15代応神天皇の諱で神功皇后を母とし在位41年に亘り大陸の文化を積極的に取り入られ、古代日本の文化の向上、国家の発展に尽くされた御功績が仰がれ皇室の崇敬する神であるばかりでなく源氏一族をはじめ武人の神、弓矢八幡と称して全国各地へ勧請され、開拓の守護神、農耕神としても信仰されました。

当社においても平安中期、源顕清が信濃の国に流された時、この地を訪れ広大な景勝の原野に武運長久を祈り八幡大神(誉田別尊)をご神木の大欅に包まれる鞘堂内のご神殿に祀られたことから、この広原一帯を八幡原と名付けました。

川中島合戦で破壊された神殿を信玄は高坂弾正に命じて社殿を再建させ、その後松代藩真田家が明治維新まで代々祭祀、修繕の管理運営をされました。
現在は明治41年に建御名方命(
諏訪大社の祭神)が合祀され、その御神徳は、必勝、厄除、交通安全、安産、育児などであります。




社頭

参道

 


武田・上杉両雄 一騎討ちの地 八幡原

 




鳥居


鳥居 扁額



手水舎



旧社殿(鞘堂)

八幡社は、山本勘助が海津城を築くときに水除け八幡として、この地に勧請したと伝えています。
永禄4年の第4次川中島の戦いのときに武田信玄が八幡原に本陣を構え、激戦場になったため社殿は破壊されてしまった。
そこで信玄は海津城代高坂昌信(
春日虎綱)に命じて社殿を再建させました。
旧社殿は平泉の中尊寺金色堂と同じく鞘堂構造だそうです。



拝殿



 

現在ある社殿は、上田市の生島足島神社が改築されたときの旧社殿を譲り受け、皇紀2600年記念事業として、昭和15年に移築したものです。


拝殿 扁額




本殿





武田信玄 上杉謙信

一騎討ちの像



馬上から斬りつける白頭巾の上杉謙信
軍配団扇で受ける床几の武田信玄

永禄4年(1561年)の川中島合戦で、武田軍の本陣に攻め入った謙信の太刀を信玄が軍配で受け止めたとされるエピソードから、海音寺潮五郎原作のNHK大河ドラマ「天と地と」の放映(昭和44年)を記念して建立された迫力のあるブロンズ像。




御神木




三太刀七太刀之跡


永禄4年(1561年)9月10日、ここ八幡原を中心に上杉、武田両軍三万余の壮絶な死闘が展開された。上杉謙信は紺糸縅の鎧に萌黄緞子の胴肩衣、金の星兜に立烏帽子白妙の練絹で行人包、長光の太刀を抜き放ち、名馬放生に跨り戦況の進展に注目、乱戦で武田本陣が手薄になったのを見て、旗本数騎をつれ信玄の本営を強襲した。この時の武田信玄は諏訪法性の兜、黒糸縅の鎧の上に緋の法衣、軍配を右手に持ち、この地で崩れかかる諸隊を激励指揮していた。この信玄めがけて謙信は只一騎、隼の如く駆け寄りざま、馬上より流星一閃、信玄は軍配で受けたが、続く二の太刀で腕を、三の太刀で肩に傷を負った。後にこの軍配を調べたところ刀の跡が七ヶ所もあったといわれ、この一騎討ちの跡を世に三太刀七太刀の跡という。



首塚


この塚は以前は屍塚と呼ばれ、永禄4年(1561年)9月10日の戦いの後、武田方の海津城主高坂弾正が激戦場となったこの辺り一帯の戦死者(6千余人)の遺体を敵味方の別なく集め、手厚く葬った塚の一つである。

これを知った上杉謙信は大変感激し、後に塩不足に悩む武田氏に対し、「われ信玄と戦うもそれは弓矢であり、魚塩にあらず」と直ちに塩を送り、この恩に報いたといわれている。このことが乱世に咲いた美学と褒め称えられ、「敵に塩を送る」という言葉が生まれたといわれている。




川中島合戦をしのぶ

田中月亀翁父子の歌碑




マップ・川中島大合戦図





この日は 社務所が閉まっていて


御朱印が頂けず 残念でしたが


迫力満点の


武田信玄 上杉謙信


一騎討ちの像が


見れて 大満足でした♬





ニコニコウインク爆笑おねがいラブ