昔、わたしが若かった頃、知人と二人で何ということもない話をしていた時のことですが、
相手の人の何かの言葉のきっかけで、わたしが「普通になりたい」と言った時、その人が急に怒りだし、
「おめえなんか、普通だよ!」と言って、ガタっと乱暴に席を立ち、去って行ったということがありました。


 それ以来、その人と話すことはなくなりました。その人がわたしに近寄って来なくなったからです。


 当時のわたしは「ああ、この人にはわからないんだな」くらいにしか思わなかったのですが、当然、怒鳴られて面白い訳がありません。しばらく何故そのようなことが起きたのかと気になり、理由が知りたいと思っていました。


 今のわたしがかつての自分に教えてあげるとするならば、「両者の‘’定義づけ‘’が異なっているからだ」と説明します。
「理由を知ってみると、どちらが悪いという訳ではないのだよ。でも怒鳴られたことはイヤな目に遭ってかわいそうだったね。」と。



 当時のわたしは、自分が虐待被害者で、人生の土台がガタガタであることから、若くして現実がうまくいっていない実感が強くあったために、自分の境遇を呪って「普通の家に生まれたかった」という悲しみからそのように発言したのですが、相手はそのような事情を知りませんので、致し方のないことではあります。


 そもそも虐待に限らず親子関係というものの影響とは、ポジティブなものでもそうでないものでも「一生続く」と一般には言われていますが、それが意味する所も、
「よくわからない。いい大人なんだから自分で変えたらいいのでは?」という認識の(かた)も多いものです。それは仕方のないことです。

 (もちろん変えられるのですが、そういった一連のことが一体どういうことなのかという重みは、当事者にしかわからないことなのです。)



 さて当然のことながら、「普通から外れてしまった苦しみ」というものは、虐待被害だけではありません。

 疾病や事故、事件、破産・・・本当に様々なことがあります。

 

 一方、「普通であることが悩み」という苦しみは、「自分には個性や特徴がないのではないか。面白味に欠けているのではないだろうか」という、根拠のない「自分へのダメ出し」の苦しみなのではないでしょうか。


 「普通」という言葉に対する定義づけが、ネガティブなものとなっているのです。


 「普通から外れてしまった苦しみ」を持つ人々にとって、「普通」という言葉に対する定義づけは、ポジティブなものです。例えば安心、喜び、憧憬(しょうけい)といったものですらありえるでしょう。


 今のわたしは「普通」であることを楽しみ、ありがたく思い、満喫しています。


(現在、「自分は普通から外れてしまった」という苦しみを感じている人が「普通である喜び」を感じられるようになるには、やり方はケースバイケースで色々とあるのですが、ここで一つ取り上げるとするならば「自分を異常だと思わないこと」です。)



 さて、先に少し触れたように、「普通」という言葉に対してネガティブな定義づけがある、つまりネガティブな印象を持っているという方々(かたがた)が「悪い」といったようなことでは、勿論ありません。そういった方々にも色々な事情や歴史があるのです。


 ただ今回生きている、せっかくのその人生がもったいないですので、ご自分へのダメ出しをしてしまっているかもしれないという可能性を知り、まずはありのままの自分を受け入れ、そして楽しんで頂けたらと思います。


 自分で自分にダメ出しをしていると、他者もあなたをそのように扱ってくることが増えてくるでしょう。他者とは自分の内面を映し出す鏡、「反射板」だからです。


 地球人全員に各人の幸福を実感して頂けるようになりたいので、「単に定義づけが異なっているだけなのだ」と知ることにより、人間関係に不要な波風が立ちにくくなるのではないかと思ってお伝えしてみました。



  今回もお読みくださりありがとうございました。
 ではまた・・・。