昔、どこかの会社の社長さんが、
「自分がやっていることは、遊びである。僕は仕事を、全力で遊んでいると思っている」とおっしゃっている記事か何かを読んだことがあります。


 その時のわたしは意味がわかりませんでした。今もその方の真意についてをどこまでわかっているのかわかりません。ひょっとしたらその社長さんは、「そのくらいのゆるみがあるのが、自分にはちょうどいいのです」という、精神的バランスをとるための工夫(くふう)を教えてくれたのかもしれません。


 今のわたしは、「人の活動のすべてが“リーラ”である」と思っています。


 リーラとは、インド哲学などで言われる言葉で、神が自らを忘れて人間やほかの生き物などになりきり、泣いたり怒ったり笑ったりする「神の 遊戯(ゆうぎ)」のことです。


 わたしたちは元をたどれば、禅画で(あらわ)されるような、色もない、音もない、何もない、ただ存在として()る、ひとつの存在です。三次元的にイメージすると、境目もない、ただの空間に浮いているエネルギーの球体です。


 これが(ソース)であり、グレートスピリッツ、ワカンタンカ、大日如来(だいにちにょらい)、サムシンググレート、オールザットイズ等とも呼ばれる「わたし」達です。


 すべては、この「単なる意識のエネルギー」が、ある一定の法則をもとに創り出した空想であり、イリュージョンなのです。目的は「遊び」のためであり、「自分を再発見、再確認する」という遊びを選択しているスピリットもいます。


 そして「ある一定の法則」、つまりこの世界を構築する「プログラムのコード」をわたし達人間が理解できるように可視化すると、たとえば「フラワー・オブ・ライフ」のような幾何学模様(きかがくもよう)に見えるのです。


 昔のわたしがこれを聞いたら、

「はぁ?

未来のわたしは、一体何を言っているの⁉

こんなに苦しんでいるのに“遊び”だなんて、どういうこと?!」

憤慨(ふんがい)し、大変(いぶか)しく思ったことでしょう。


 ですので、そういったご批判、ご反論、ご意見がある場合は、お気持ちがよくわかるつもりです。ですので以下のようにお伝えしたいと思います。


  「人の活動はリーラである」と聞いて不快に感じる場合には、「遊びや(たわむ)れ」という言葉ではなく、「ポジティブな活動」と言い換えてみたいと思います。


 わたし達は自分にとってポジティブな(魂と沿った)人生を生きるために生まれてきました。今、そのような人生ではないと思うのであれば、人生逆転を経験し、本来の素晴らしい自分を再発見、再認識することが、その人の全我(ぜんが)の魂の目的です。


 全我のわたし達は、自分がプログラマーであり、同時にプレイヤーでもある、ということです。


 そしてプレイヤーとして現実世界を経験するためには、キャラクター設定が必要です。


 わたし達の多くは、すっかり忘れていますが、性別、国籍、長所、得意なことといった基本設定を、魂だった時に、それぞれに目的があって自分で決めました。自分が経験したいテーマを決めて、自分が決めたテーマに合い、そして同意を得られた家庭や環境に、身体意識(フィジカル・マインド)を送り込む、といった具合です。


 こういった考え方を聞いて、「そうだったのか、なるほど、なるほど」と思えるかたもいれば、そうではなく、「こんな人生、誰が選ぶって言うのだ!」と叫びたくなるような人もおられるでしょう。


 わたし自身は後者でしたが、何年もかけて、一人でじっくり自分と向き合い、「どういう概念を自分に取り入れて行ったら真の精神的なラクさを体感できるか?」といったことを細かく確認したら、現在のような結論に至りました。

 

 

 新しい自己教育はわたしの中で矛盾なく機能し、今やわたしは本来の自分の自然な状態へとかえっていき、そこを土台に新しい自己探求(と思い込んでいるもの)を新鮮さ、喜び、感謝を伴って経験しているのです。これがエキサイティングでなくて何と言うのでしょう。


 どういった概念が必要なのか、信じたら精神的に健康になれるのか、といったことは、本当に人それぞれなのです。ですのでこういったスピリチュアルな情報は不要な人もいますし、やがて卒業していく人も少なくありません。わたし自身もいつまでこの活動をしているのかといったことは決めていませんし、わかりません。


 この「自分で決めた」という概念は、言うなれば、「責任と自由」を自分の手に取り戻すことでもあります。



 「責任」と聞くと、「すべて自己責任」といったようにネガティブな印象を受ける人もいますが、「責任」とは自由の裏返しであり、案外(あんがい)重たいものではありません。


 それに、そもそも、すべてはエネルギー体のわたし達が空想により生み出したコンセプトであり、「台無しになってしまった人生」も、情報としては残るかもしれませんが、ないと思えばないものであり、他者との垣根も、無いのです。


 人間関係に関しても言及(げんきゅう)すれば、「あーそぼ」とほかの設定を生きる「わたし」である「他者」に話しかけ、
「あーとーで」と断られても、「あ、そうなんだ。今ダメなのか。じゃ、ほかに行こうっと」といった程度でいいもので、傷つくことはないのです。


 そして都合が良ければ「いいよ!何して遊ぶ?」と合意して遊びます。そんな程度の認識でいいのです。


 お互いに軽やかに断り、同意し、共存する。「(ソース)」を想像することがまだ遠いという場合には、まずはここをイメージするといいかもしれませんね。


 自分の毎日の過ごし方について言えば、自分というキャラクター設定を正確に読み取り、その役を演じ切ることに、可能な限り心を(そそ)ぐこと。これが「自分らしい生き方」となります。この生き方は、自分のハイアーセルフや(ソース)と調和する方向なのです。

 
 できるだけ自分の魂の喜びに(かな)ったリーラを選択して生きていきましょう。



 それでは、また・・・。




 (当ブログ『古今東西』も別ブログ『重ための話』も不定期更新)