謹啓 時下益々御清祥のこととお慶び申し上げます



平成二十六年七月十日

夫 春一番(春花 直樹)の葬儀を滞りなく相済ませました


ここに謹んで御礼申し上げますと共に


皆様より賜りました御芳情に対し厚く御礼申し上げます



平成二十六年七月十一日 喪主 春花 綾






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突然の事


亡くなる前日2日の日、私は目眩と頭痛でずっとベッドにいました。
春さんが「お腹すいたよ」とか「お話ししようよ~」とか言っても「頭痛いから寝かせて」と断ってました。

結局春さんはひとりでご飯を食べて「つまんない つまんない」と言いながら、翌3日午前0時半頃に「じゃあ俺も寝る」と言って寝る前の薬をのみました。
それから私に「綾ちゃんもご飯食べて痛み止めのみな」と気遣ってくれました。

居間の隣に寝室があるので、プロレス始まるよー(テレビ中継)とか、あと5分寝かせてと言う春さんに5分経ったよーと声を掛けたりと、居間と寝室に別れての会話は我が家の日常風景です。

3日深夜、寝る前の薬をのんだ後も寝ると言いつつ「明日は一緒にご飯食べる?」とか「明日は頭痛いの治る?」など、ぶつぶつ言ってる春さんと話して午前2時頃に「もう薬のんだんだから寝なさい」と言って春さんを迎えに居間へ行きベッドに寝かせて布団を掛けました。

春さんは甘えん坊なので、寝る時は私が布団を掛けてあげないと拗ねます。
「フサーやって」と掛け布団を私が掛けるのを実行するまで言うので「はいフサー」と掛けました。

暫くすると春さんの寝息が聴こえてきたので私も寝ました。

午前4時半頃に私がふと目を覚ました時には春さんは軽く鼾をかいて寝てました。

眠ってる時はアレやコレや言わずおとなしくて可愛いな…と思い春さんの寝顔に頬をつついたり、口を開けて寝てるので口を閉じさせたりと少しの間イタズラしてまだ夜明け前だったので、私ももう一眠りしました。

次に私が目覚めたのは午前7時前でした。
目覚めて隣の春さんを見ると春さんの顔が真っ白に見えました。
これはいけない!低血糖だ!と思い春さんの頬を触りました。頬、おでこ、と触って冷たいので、布団を剥ぎ胸を触りました。
胸も冷たいので直ぐに119番に「主人が冷たい!顔が白い!糖尿なんです」と電話をしました。
電話を切ってから春さんの足を触るとまだ温かかったので、大丈夫!大丈夫!病院に行けば大丈夫!と自分を励ましながら春さんに呼び掛けてました。
私が119番に電話したのが午前6時56分です。
一度切った電話が直ぐに鳴りだして救急隊の方が正しい心臓マッサージの仕方を教えてくださり1、2、3、4、5、6、1、2、3、4、5、6…と心臓マッサージをしながら救急車の到着を待ちました。

救急車が到着して救急隊の方と心臓マッサージの交代をし、春さんの氏名、生年月日、住所、病歴、気付いた時の状況などを話しました。

その間も救急隊の方がAEDや心臓マッサージをしてくださいまして、受け入れてくださる病院が決まり都内の大学病院に搬送されました。

病院の救命センターに到着し、私は春さんが助かる事を信じて家族控え室で待ちました。

どれくらい経ったのか覚えていませんが、暫くすると医師に呼ばれ春さんのもとに行きました。

医師から「我々も手を尽くしましたが残念ながら…」
と言われ病院到着時には心肺停止状態だった事、蘇生させるために強い注射を射ったけど効かなかった事など説明を受けました。

「…午前8時1分御臨終です…」

「装置を外しますのでまた控え室でお待ちください」と言われました。


東京23区内では、病院で息をひきとった人以外は自宅であろうと路上であろうと警察が呼ばれるそうです。

春さんの装置を外す間に警察の方がみえて、事情聴取を受けました。

春さんの処置が終わり警察の方と春さんと一緒に霊安室に行き、またそこで昨夜の様子や病歴などを話しました。

その後、春さんは警察署へ私は自宅に帰らされました。

警察の方が自宅にみえて、現場検証の様な事をしました。
最近の様子や前日の事、何時に寝て私が異変に気付いたのはいつ頃かなど、分かっている事はすべてこたえました。
部屋の様子など写真を撮ってました。

警察の方が「これから監察医の先生が御主人の御遺体を検案します」と言われました。

「様子を伺ってると御主人は持病を抱えてるし物取りとかの事件性も感じないから大丈夫だと思いますが、先生が調べてみて…最悪の場合は行政解剖をします。奥さん辛いでしょうが、きまりなので勘弁してください」と言われました。


自宅の調べが終わり監察医が警察署に到着した事を知らされ私も警察署に行きました。

春さんの検案が終わり警察の方に呼ばれて、病死である事、行政解剖はしない事を伝えられました。

死亡届けを渡されて「奥さんがどうしてももっと詳しく(死因を)調べてほしいと思うのなら(解剖を)しますけど、どうしますか?」と、きかれました。

私はその時、春さんは痛いの嫌いだからこれ以上可哀想な事しなくていいです。
もう連れて帰ります。
と言いました。

警察署の遺体安置所に案内されて春さんと会い線香を一本だけ手向け、一緒に帰りました。

一緒に帰ると言っても自宅は賃貸マンションなので、近所にある斎場の霊安室に春さんをあずかってもらいました。

葬儀の日まで春さんに会いに斎場へ通いました。
そして昨日10日 春さんの葬儀を滞りなく相済ませました。





春さんと出会って22年

マネージャーになって20年

結婚して18年

いつも春さんと一緒にいました。

辛い事はふたりで乗り越えて、くだらない話で笑ってました。

子どもは俺達がまともな大人になってからつくろうと言っていたのでいません。

普段の春さんは穏やかでお酒を呑んでも変わらず穏やかで、甘えん坊で、寂しがりやで、陽気で、人なつこくて可愛い人です。

長電話が好きで、でも最近は皆さんメールやラインなどで繋がりを持たれるので、なかなか春さんの長電話にお付き合いくださる方もいなくて寂しがってました。

「俺は声が聴きたい!声を聴けば元気かな?とか忙しくしてるかな?とか分かる。だから電話が好き」と我が儘を言ってました。


奥さん大変だねとよく人に言われましたが、春さんは酔って暴れたり暴力をふるったりしない穏やかな酒なので、苦労は感じませんでした。

昔はバーボンを1日1l(ロックで氷が溶けて薄くなったら新しく作る)呑んでましたが、2005年に大病を患ってからは禁酒、節酒をしてました。

自分で酒スケ(飲酒スケジュール)を組んで、今週は呑みませんとか明日は呑むよ…なんて言ってました。


あまりに突然で、今は何も考えられません。

60歳になったら真っ赤な闘魂ガウンを作って貰って元気に「還暦ダァー!」をやってほしかった。

もうひと花咲かせてほしかったです。

春さんなら咲かせてくれると私も事務所のスタッフも信じてました。


春さんとの最期の会話が「ごめんね」(私が体調悪いのに布団をフサーしたから)なんて悲しすぎます。

それでも春さんは苦しまずに眠ったまま事切れたので、そこだけは良かったと思います。


葬儀・告別式では出棺前にもう我慢しないでいいよ…と、春さんにワイルドターキーを呑ませてあげました。

2005年大病から復活して禁バーボンをしていたので思う存分呑ませました。

春さんは以前、俺が死んだら皆でダァー!をやってくれと言っていたので最後に私が春さんの真似をしました。

「えー今回も負けてしまいましたが、最後に気持ちのいいやつをイッパツやらせてください。1.2.3.でダァー!です。いくぞー!1.2.3.ダァー!」

めちゃくちゃしょっぱいダァー!だったと思います。

でも春さんから言われていた「ダァー!」とバーボン解禁とめちゃくちゃなお式という言伝ては守れたので、参列してくださった方々には御許し頂きたいと思います。



春一番を応援してくださった皆様

春一番を支えてくださった関係者様

春一番と仲良くお付き合いしてくださった御友人の皆様


本当にありがとう御座いました。


春一番闘魂伝笑ブログを御覧くださりありがとう御座いました。

この場をかりて御報告をする事を御許しください。

学がなく素人の文章なので、読み難いところも多々あるかと思いますが、何卒御容赦願います。



春一番 妻 綾