16年。

お兄ちゃんが「お星さま」になってから、そんなに長い時間が経ちました。

15歳でこの世を去ったお兄ちゃん。

長いお付き合いの方は、毎年綴らせてもらってるのでご存知でいてくださる方もいらっしゃいますが。

あたしのお兄ちゃんは、小学校1年生の時に小児ガンを患いました。
しかも、腫瘍ができた場所は脳。
3年、長く持って5年と、両親は宣告されたそうです。

2年に1度は、入院して大手術を繰り返しました。(一度は交通事故ですが…。大きな事故だったのに骨折と打撲だけで済んで、当時「不死身の亮ちゃん」と言われてたのは今はちょっぴり辛い。)

3つ下のあたしは、手術の度にお母さんが泊まりがけでお兄ちゃんに付き添っていても、
自営業で常に家にはお父さんがいたのと、近くに住んでた母方のおばあちゃんが母親代わりをしてくれたおかげで、不自由なく過ごすことが出来ていました。

お父さんもいる。おばあちゃんもいる。
お兄ちゃんとお母さんに会いたくなったら、おばあちゃんが一緒にバスで病院に連れてってくれる。
それが、ちょっと変わったあたしの「幸せ」でした。

入院していない間は、めいっぱい一緒に遊んでました。
だって、近所でも有名なくらい仲良し兄妹やったんやもん。
お兄ちゃんについて、男の子の遊びばっかりしてましたがね(笑)

お兄ちゃんはいつも笑ってました。
泣いた顔なんてほとんど思い出せない。
そして、あたしに大きな愛情を注いでくれていました。

でも、お兄ちゃんが中学に上がった頃から、少しずつ生活が変化していきました。

腫瘍の影響で、半身に障がいが見え始めたのです。
足を引きずって歩くようになり、その年の術後は、歩けなかったそうです。
ごはんを食べるのが大好きなお兄ちゃんが、ごはんも食べず、布団に潜って泣き続けたそうです。

あたしがお兄ちゃんに会ったのは、いつもの笑顔が戻ってからでした。
きっと両親が気を遣ってくれていたのではないかと思います。

けれど、病気は待ってはくれませんでした。
中3にもなると、障がいはますます進行し、階段も手すりがないと昇り降りもできず。

通ってた中学には、階段の片方にしか手すりがありませんでした。
でも、それをお兄ちゃんの同級生の方たちが先生たちに働きかけてくださって、手すりをつけてくださったのです。
お兄ちゃんのためにも、これから障がいのある生徒さんが入ってきてもいいように。
あたしが同じ中学に入学してそれを見た時は、話を聞いた時以上に嬉しかった。

進路を決める時に、養護学校(当時)を先生や両親から勧められても、頑なに普通の高校に行くと言っていたお兄ちゃん。
けれど、普通の高校では生活に不自由するからと、一度養護学校を見学に行って、何かが変わったのでしょう。
養護学校に行く、と。そして、寄宿舎に入って生活する、と。
お兄ちゃんなりに、考えて決めたことなんだろう。

週末は寄宿舎の帰省日だったから、
お母さんと一緒にお兄ちゃんを迎えに行って、足りないくらいお互いの溜まった話をした。
うちは階段も急な家。だけど、お父さんがおぶって2階まで連れてったり。
身長も180超えてたし、抗がん剤の影響で体重も増えてたから、容易いことではないんだけど。

でも、そんな生活は2ヶ月しか続きませんでした。
病気は悪化の一途を辿っていました。
長い入院生活。外泊日にたまに家に帰ってくるぐらいで、お母さんもお兄ちゃんにつきっきりになりました。
それでも、毎日家に電話してきては、テレホンカードが何枚あっても足りないくらい、長電話をしていました。
あたしも週末になると、部活をサボってはお兄ちゃんに会いに行きました。
お兄ちゃんの大好きな肉まんを買っていって、お兄ちゃんはいつも笑顔で迎えてくれました。
お昼ごはんを買いに旧大学病院の救急出入り口から出て上を見上げると、ちょうどお兄ちゃんの病室。窓からお兄ちゃんとお母さんが覗き込んでは手を振って、戻ってくるまで待っててくれたりも。

外泊日にあたしの体育祭が重なって、
お兄ちゃんの学ランを着て応援団をやった姿も見てもらえた。

でも、合唱祭と重なった時にも、外泊日で「見に来てね」って言って学校に行ったけど、寝込んでたお兄ちゃんは気掛かりで。
合唱祭には、体調が優れず見に来てもらうことは出来ませんでした。
あたしは、「翼をください」を歌いながら涙が止まらなくなりました。

その数日後。
学校から帰ったらお兄ちゃんとお母さんがいませんでした。
お父さんから、まだ外泊日は残ってるけど具合が悪くて病院に戻った、と聞かされました。

それからお兄ちゃんに会いに行くと、いつもの笑顔で迎えてくれました。
ただひとつ違ったのは、お兄ちゃんは寝たきりになり起き上がることも出来なくなっていました。

それから、ほんの数日後。
あの日のことを、忘れることはできません。
親戚のおばさんに連れて行ってもらってお兄ちゃんに会いに行くと、いつもの笑顔はありませんでした。
お兄ちゃんは、もう意識も遠くなり、お母さんが耳元で大きな声で「春菜来たよ」って言っても、なんの反応もありません。
手を握っても、いつもバカみたいに強い力で返して来るのに、全然力を感じなくて。
何回も、「春菜の手握ってあげて」ってお母さんが言っても、全く力を感じない。
涙がとにかく止まりませんでした。でも、おばさんに「春ちゃん。明日も学校あるでそろそろ帰ろ」って言われても、諦めることができなくて。

すると、本当に微々たる力を手に感じました。
お兄ちゃんの顔を見ると、うっすらと目を開けて、涙をひとつ、流しました。
今でも昨日のことのように思い出せる光景。周りの誰もが、泣いていました。

その後、お父さんからこんな話を聞かされました。
お兄ちゃんに延命治療をするか、という選択を先生からされたそうですが、
もう延命治療はしない。お兄ちゃんは充分すぎるくらい頑張った。これ以上、苦しませることは出来ない、と。

いま思うと、この両親の選択には胸を引き裂かれる思いです。
でも、その時に中学生ながらに、「人の人生って、長さより中身なんだな」って、気付きました。

それから数日後。
お母さんがいつもなら目を覚まさない時間に目を覚まし、
お兄ちゃんの脈を確認してから一度病室を出て戻ろうとすると、
看護師さんが走って病室まで来て、「(ナースステーションに繋がってる機械の)脈がおかしい」と。
それからすぐ。爪の色がすぅっと引き、苦しむこともなく眠るように、15歳の生涯を閉じました。
まるで、お母さんに自分の最期を看取ってほしくて起こしたかのようでした。
そして次の日で、発病からちょうど10年が経とうとしていた日でした。

夜中でしたが、すぐお兄ちゃんは帰ってきました。
眠ったままのお兄ちゃん。あたしにしがみついて泣き続けるお母さん。
目の前にある「現実」をどう受け止めたらいいかわからず、ただただ呆然と泣き続けました。

仲のよかった従兄弟も、お兄ちゃんを厳しくしつけたおじいちゃんも、おばあちゃんも、友達も、みんな、お兄ちゃんの横で泣き崩れました。
でもたまに、お兄ちゃんの友達が笑わせてくれたり。
お通夜にもお葬式にも、びっくりするくらいたくさんの人が駆けつけてくださいました。お兄ちゃんの人望。

すると、お兄ちゃん、不思議なことに強ばっていた表情が、笑顔になったのです。誰の目から見てもわかるほどに。
最期までいつも優しくみんなを包んでくれて、辛くてもいつも笑っていた、笑顔印のお兄ちゃんらしく。

---------------------

今年はお兄ちゃんの十七回忌でした。
でも、お兄ちゃんをあんなに大切にしていたお母さんが、出張と重なり法事に出ることができませんでした。
自分のスケジュールミスと、お母さんはずっと自分を責めていました。

お父さんと一緒にお経をあげてもらって、
お寺さんと話す中で、お父さんは「覚悟はしていたんですけどねぇ」と。
辛かった。たぶん昔に聞くより。
まだあたしは結婚もしてないし人の親ではないけれど、身近ないとこや友達が親になり、我が子に愛情をかけている姿を見ているからかな。

お母さんの気持ちをなんとか鎮めてあげたくて、今日一緒にお墓参りに行ってきました。
相変わらず、お兄ちゃんが使っていた大きなお茶碗は日光にも雨風にもさらされても、16年ひびも入っていません。
だからさー、どんだけごはん食べたいんやてってば!笑。

うちの部屋にもあるお兄ちゃんの写真は、全部あの笑顔のまま。
気付いたら、お兄ちゃんが生きたのと同じだけの時間も過ぎたし、あたしももうすぐお兄ちゃんの倍生きようとしてる。

正直、今まで歩いてきた道を誇れるかって言ったら、誇れないことのほうが多い。
あたしの場合、命に関わる訳ではないけど持病も抱えてしまい、そのせいもあり仕事も転々として。
全然自立出来なくていい歳しても親に頼りきって迷惑かけっぱなし。
いっときのこと思うとましにはなったけど、精神科通いしてるっていう非難の目だってまだ浴びるし、なかなか理解されない(ってか自分でも理解しきれてないんやから当たり前やと今は思ってるけどね)けど、きっとお兄ちゃんはもっと辛かっただろな。

ただ、誇れるのは、
たくさんの友達に囲まれて、大好きなこともあって、笑顔で過ごせるようになったこと。
お兄ちゃんの分まで本気で笑って泣いて毎日を過ごしていること。
でも、ずっといじめに遭ってたあたしがこんな毎日を送れるようになったのは、お兄ちゃんからのプレゼントかも?って思ったりも。

今でもきっと、お兄ちゃんは空の上から「またはなはバカなことばっかしてー」って笑ってると思う。おばあちゃんに追っかけ回されながらね笑。

だから、もっとお兄ちゃんに誇れる毎日を送れるように。
いつかまた、足りないくらいいっぱい話出来るように。

とにかく。
前を向いて生きていく。

それがあなたとの 約束。

CANDYからの投稿