エバへ。

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「犬は散文、猫は詩」

ジーン バーデン
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雑種の猫のエバが我が家にやって来たのは1997年のクリスマスイブだった。
庭の室外機の裏の隙間から手の平サイズの仔猫がみゃあみゃあと喧く鳴いていたのを母親が見つけた。

母が抱き抱えようとすると、仔猫は脱兎の如く逃げ出し、開いていた窓から我が家のリビングに飛び込んで来た。リビングにはクリスマスパーティー中の家族が勢揃いで、仔猫は安全を求めて飛び込んだ部屋に無数の敵を発見しパニックになって、しばらくあちこち逃げ回った後、キッチンのシンクと壁の間に飛び込み、その一番奥でみゃあみゃあと掠れた声で何かを訴え始めた。

仔猫は銀と黒のまだら模様で、顔は小さく美しかった。
まだ生まれたばかりなのだろう、小さくか細かったが、周囲に親猫の姿は見当たらない。

シンクと壁の間は腕がやっと一本何とか入るくらいの狭さで、仔猫がいる一番奥までは家族の誰も手が届かない。

しばらく皆で仔猫を捕獲しようと四苦八苦し、どのようにしたのか分からないが、結局猫好きの母が隙間から猫を引っ張りだした。

仔猫は人類に対する敵対心を全身に漲らせ、母に首根っこを捕まれながら暴れた。
鳴き過ぎたのだろう、声はすっかりハスキーになっていた。


その時我が家には母、父、祖父、僕、弟2人という6人が住んでいた。
その頃父と母は生活に疲れ果て、些細なことでいつも喧嘩ばかりしていた。
さらに、祖父と母の関係も拗れていて我が家は冷えきった雰囲気であった。

当時僕は18歳の高校3年生で、弟たちはそれぞれ14歳と12歳。次男が早生れなので分かりづらいが、3学年ずつ離れている。兄弟仲は何の躊躇いもなく一緒に風呂に入れるくらい良い。


そんな緊張感と違和感の漂う家に愛らしい仔猫が訪れたのだ。
しかもクリスマスイブに。

母によってその雌の仔猫はエバと名付けられた。
エバは母以外には中々なつかなかった。

我が家では以前犬を飼っていたことがあるが猫は初めてで、しかもかなり攻撃的な性格だったので始めはエバの扱いに皆困ったが、数ヵ月餌をあげたり撫でたりするうちに少しずつ僕や兄弟には近づいてくれるようになった。父や祖父などの大人の男性は何故か苦手なままだった。

年が明け、母の教育の甲斐もあってエバはトイレを覚え、操作中のPCのキーボードの上や読みかけの本の上など居心地の良い場所を覚え、すっかり我が家に馴れたようだった。
ハスキーボイスはずっと治らなかった。


新しい年は僕たち兄弟にとって特別な年で、僕は高校を、次男は中学を、三男は小学校を卒業する。そしてそれぞれが新しい進路に就くことになっていたが、僕は浪人し、バイトしながら予備校に通う事になった。
次男は都立高校に進学し、三男は区立の中学へ進んだ。

もちろん卒業や進学はエバとは何の関係も無いけれど、それでもエバが来てから、それまで停滞していた我が家の空気が一気に流れたかのようだった。


そしてさらに唐突に母の口から、家族に関する驚くべき発表がなされた。



第2話へ
「健康は第一の富である」

ラルフ・ワルド・エマーソン
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前編はこちら

僕の家はわりと由緒ある家系で、数代前に内閣官房長官がいたり、祖父の仲人が伊藤博文のお孫さんだったりする。
遡れば安土桃山時代に仕えていたお殿様から名字を頂いた記録があったり、井伏鱒二の処女作にちらっと名前が出てきたりする。

僕の代ではすっかり凋落しその頃の名残も、菩提寺の大きな墓石以外にはほとんど感じられないけれと、祖父が自らの家柄を誇りに思っている事は常々感じられた。


僕の祖父のさらに祖父には男児が生まれなかった。この大おじい様が内閣官房長官であった。ちなみに、その頃の首相は山県有朋である。

祖父は大おじい様の、新潟に嫁いだ娘の長男坊で、跡取りのできない大おじい様のところに養子に入った。
長男なのに養子にされた事から自分は本当の子ではないのではないか、少なくとも両親に完全には愛されていないのか、という疑いを抱き続けながら成長したと祖父は時々口にした。

祖父が養子縁組された年齢は不明だが、十代後半の頃戦争で、住んでいた東京から実の親元の新潟の方に疎開していたというから、割と大きくなってからの縁組みだったのかも知れない。


祖父や祖父の家族がどういう感情をその出来事のうちに持ったか、時代が違うので充分には理解しがたいけれど、「家」というものが個人の心よりも尊重される封建的な話であるから、若い祖父が表に出せない傷を負ったのだろうとは想像がついた。


祖父は生粋の理系人間で幼い頃からラジオを自作し、大きくなってからもテレビを自作したり、スティールギターを自作したりしていたという。今でも自らの手を煩わせるのが好きである。

戦時中、本来理系の学生は徴兵されないはずだったのだか、日本軍の劣性が決定的になると、そうも言っていられなくなり、祖父も軍隊で訓練を受けることになった。

争い事の嫌いな祖父は態度がなっとらんと随分上官に怒られたようだ。うっかりトンネルの中で銃を天井に誤射してトンネル中に弾が反射して飛んでいった時など、それはもうこっぴどく叱られたそうだ。


結局祖父が戦地に送られる前に戦争は終わった。

それから祖父は東京放送局、今で言うNHKに就職し、結婚し、子供を二人もうけ定年まで技師として働いた。

祖父はよく東京大空襲の話を孫達にした。

どんなに恐ろしかったか。
疎開せねばならず、どれだけ肩身の狭い思いをしたか。

その話の流れで「ガラスのうさぎ」という本を見せてもらったことを覚えている。
空襲で溶けたガラスのうさぎの持ち主の少女の物語であった。



日本で映画「禁じられた遊び」が公開されたのは1953年。その後1960年代に洋画リバイバルブームが起こり、禁じられた遊びの映画が再上映されるやナルシソ・イエペスが弾く主題歌の「ロマンス」がクラシックギターブームを巻き起こした。

祖父はその時30代で、その音楽をどのような気持ちで聞いたのか尋ねてはいないが、いつか僕と祖父で二人でナルシソ・イエペスのギターをyoutubeで聴いていると、祖父は深い懐かしさを感じている様子だったので、きっと曲を含めたその当時と言う時代に強い思い入れがあるのだろうと知られた。

「禁じられた遊び」はフランス映画だ。その事はきっとNHKのフランス特派員だった祖父の心のどこかとリンクしただろうと思う。


時は流れ、二人の息子を育てる祖父母はいつしか壮年期を迎え、孫ができ、次男と二世帯住宅で住むことになった。
その次男と言うのが僕の父である。
なぜ長男ではなく次男である父が祖父と同居することになったか経緯は省くが、僕にとってはその同居は有り難く、良いことであったのは間違いない。
祖母はその同居後一年程で病に倒れ、そのまま他界した。


祖父はNHK定年後都内の某大学の教授となった。教授になるのは祖母との、つまり妻との約束であったと言う。
どういう経緯か、某大学に新設される情報工学部で教鞭を、と大学の方からオファーかあったと言う。


孫達はすくすくと育ち、僕が高校生の頃はしばしば祖父と一緒に登校することがあった。

渋谷で井の頭線のホームまで一緒に歩いた記憶があるが、何故か電車の中で祖父と一緒だった記憶は何故か無い。

あの頃の祖父は姿勢を正し、矍鑠とし、足早に颯爽と歩いた。
いつも他人にも自分にも厳しく、教育者らしい威厳に充ちていた。


それから20年。その祖父が今年88歳となった。


少し小さくなった気がする。

表情も柔らかくなった。

記憶力も少し心細くなっている。

いつもネットで見つけた設計図をもとにペーパークラフトで込み入った建物を造っている。

機嫌が良いとそれをくれる。

フランス語の新聞をインターネットで毎朝読んでいる。

そしていつも、暖かく微笑んでいる。




祖父の88歳の誕生日の数日後、僕は仕事がえりにワインを赤白1本ずつ買って実家に向かった。

先日伝えたyoutubeの動画を祖父は見てくれただろうか?

自分で撮った「禁じられた遊び」の演奏とおめでとうのメッセージ。

祖父には沢山の音楽をyoutubeで教えてもらった。

そのお返しになれば良いけれど。


僕は半分の期待と半分の不安を抱き、実家に向かった。


僕は今実家の鍵を持っていない。
数年前に防犯の為に玄関の鍵が換えられて以来、新しい鍵を貰っていないのだ。


僕が実家に着いた時、21時半を回っていた。

僕は静かにチャイムをならした。

母が上機嫌で迎え入れてくれた。


祖父の部屋は玄関のすぐ脇だ。

僕は1度荷物を居間に置きに行き、祖父の部屋の前に戻り、ノックした。


引き戸の扉が開いた。

僕にくれるためのペーパークラフトを手に持ち、祖父は笑顔で、僕を部屋に招き入れてくれた。






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お読みいただきまして、ありがとうございます。

今年もどうぞ、よろしくお願いいたします。



「若くして求めれば老いて豊かである」

ゲーテ
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僕の祖父は定年までNHKで勤め上げ、その後大学教授になったという変わった経歴の持ち主だ。


大学では情報工学を教えていたので、パソコンに詳しい。
また、NHKで働いていた頃はフランスの特派員だった事があり、語学も堪能である。

僕の父が子供の頃、祖父はずっと家で勉強をしていたそうで親子でキャッチボールをしたことなど一度も無いとの事だった。

しかし孫達には教育熱心と言おうか、祖父なりのプレゼントをいつも与えてくれたし、学費や歯科矯正の費用など、金銭的な援助も惜しみ無かった。


祖父からのプレゼントで印象的な物がふたつある。

ひとつは僕が小学3、4年生の頃の誕生日のお祝いで、「サイコガンダム」のプラモデルである。

サイコガンダムはガンダムの名を冠しているにも関わらず敵側のロボットで、悪役感のあるデザインも色も僕の好みではなく、何の考えも無しに幼き日の僕は違うものが良かった、という顔をしてしまった。

その年以降、祖父がプラモデルをくれることは無かった。
孫に喜んで貰おうと一人で玩具屋さんに行った祖父の気持ちは、どんなものだっただろう。


もうひとつの思い出の品は、僕の成人のお祝いだ。

友人たちは皆成人のお祝いに親や親族からお金を貰っていた。
僕はその頃大学生で、学校に近い場所でひとり暮らしをする為に夜勤のアルバイトをしてお金を貯めていた。
そして図々しく祖父からの祝い金をあてにして、引っ越し費用が貯まるまでの期間を計算していた。

しかし、祖父からのお祝いは、フランス語会話の入門書であった。

今思えば恥ずかしい限りだが、その時の僕の落胆は計り知れなかった。
祖父から大学の学費を援助してもらっていたので顔にこそ出さなかったが、フランス語を勉強する気には到底なれなかった。


その翌年、僕は大学を辞めた。

生活費と家賃を稼ぎながら大学で勉強する意義が分からなくなってしまったのだ。僕は大学のそばの月3万8千円の築30年のアパートから祖父と両親と兄弟と猫の住む実家に戻り、ミュージシャンになる為にギターを練習したり、曲を作ったりし始めた。

祖父はそんな僕に何も言わなかったが、その頃から何故か僕に推理小説をくれるようになった。

ポー、乱歩、アガサ、カー、シャーロック・ホームズシリーズ、ヴァン・ダイン、他にも沢山の名作と呼ばれる推理小説を買い、読み終わると僕にくれた。


僕はそれを面白く読み、祖父と感想を言い合った。

そして時を同じくして、僕は祖父の誕生日にプレゼントを贈るようになった。きっかけは思い出せない。
ただ、父にも母にも弟にもプレゼントはしていたので不公平を避けるという理由だけだったのかも知れない。

祖父は理系のB型のお年寄りらしく、好みが物凄くはっきりしていた。だから、毎年プレゼントは本人に直接尋ねた。

今すぐ思い出せるプレゼントは、電気シェーバー、フランスのワイン、穴空けパンチ、素敵なしおり、アマゾンで取り寄せた、なかなか本屋さんに並ばない推理小説等だ。



何年かが過ぎ、有名な作品はほとんど読み終え、うっかり以前読んだ本を買ってきてしまうような事が続いた。

その頃から祖父は僕に自分の思い出の曲をyoutubeで聞かせてくれるようになった。

祖父は情報工学の教授だっただけあってパソコンに堪能である。

年金暮らしの有り余る時間に、パソコンを触る時間は豊富にあり祖父は自分が見つけた音楽をダウンロードし、僕に聴かせてくれた。

演歌、軍歌、クラシック、ハワイアン、新旧のポップス(初音ミクのものさえあった!)
シャンソン、ジャズ、etc.etc..

それらの曲と共に祖父の若い頃の思い出や僕が幼い頃に他界した祖母の話をしてくれた。

祖父と祖母はハワイアンを流すダンスホールで出会った、とか、昔祖父はギターを弾いていて、自分でスティールギーを作ったりした、とか、シャンソンを聞きながら、フランスの水が固すぎて飲めないからワインを沢山飲んだとか。


ある日祖父は僕に、誰かわからない端正な顔の男性の外人さんが演奏する「禁じられた遊び」の動画を見せてくれた。

プロではないようだったが、手つきが綺麗で、素敵な演奏だった。



その日以降、僕は時々その外人さんの真似をして2階の自室で禁じられた遊びを練習した。

すごく知られている曲だが、サビに入るとなかなか難しい。

禁じられた遊びを弾いていると1階で寝起きしている祖父が2階まで来て誉めてくれたり、アドバイスをくれたりした。

祖父とあまりコミュニケーションを取らずに育った僕の父はその様子を見てかなり驚いているようだった。



それからまた何年かして、僕や弟たちはそれぞれの新居に移っていった。
僕は結婚し、仕事も忙しくなり、祖父に誕生日プレゼントをあげる機会が少しずつ減っていってしまった。


ある時近所に住んでいる弟から、おじいちゃんの米寿のお祝いどうする?、とメールが来た。
弟は出来るだけお祝いを共同出資にしたがる。
僕の妻は贈り物のセンスが違うから、と別々に贈りたがる。

僕と弟はお互い贈るものを報告しあいながら、それぞれでプレゼントをする事にした。
弟は祖父が生まれた日の新聞を88紙セットにした商品を贈るようだった。

僕と妻は相談し、良いワインを赤と白1本ずつ買うことにした。
僕が仕事終わりに駅でそれらを購入し、手ずから実家に届けてお祝いの気持ちを伝える段取りとなった。


祖父の誕生日は1月14日で、今年のその日、僕は仕事が休みで妻は出勤日であった。
僕が休みの日は必ず妻の母親と一緒に食事をする習わしになっているので祖父に会いに実家に行くのは翌日にする事にした。


1月14日。

僕は祖父の事を考えていた。

ワイン以外にもうひとつ何か素敵な贈り物はできないか。

僕たちは皆平等に年を取る。

祖父だけではなく、両親も弟も僕も、大分老けた。

時間の経過はだんだん早くなる。

祖父の誕生日を、あと何回祝えるだろう?


僕は祖父との思い出の数々を思い出そうとした。

そして、思った。


音楽を、プレゼントしようと。


僕は祖父の好きな「禁じられた遊び」の演奏とお祝いの言葉をスマートフォンで撮影し、youtubeにアップすることにした。

スマートフォンのマイクは低性能で大きな音で弾くとすぐに割れてしまうので、出来るだけ小さな音ではっきり発音しなければならず、やたらと難しかったが、10回目くらいのテイクで
なんとか人様に聞かせられるレベルのものが録れた。

僕はすぐに実家の母にメールで、「おじいちゃんへ 禁じられた遊び」で
Youtubeで検索するよう祖父に伝えたほしいと頼んだ。
誕生日のうちに観て欲しかったのだ。


その後僕は仕事終わりの妻を駅まで迎えに行き、義母を含め3人で食事をした。
僕はトイレに立った際などに携帯でアップロードした動画の再生回数を見たところ、3になっていた。

観てくれたのだ。


僕なんかの演奏で喜んでくれただろうか。
ライブの前日を超える緊張を感じる。
免許の試験の結果発表待ちくらい不安感があった。
僕は、自動車の免許のお金を祖父に払ってもらったことを思い出した。

明日、動画の感想を聞こう。
美味しいワインを持って、聞きに行こう。
そして、今まで良くしてくれたお礼を言おう。


僕は祖父の喜ぶ顔が見られることを祈ってその晩眠りについた。
念のため寝る前に再生回数を確かめたところ、それは、8回に増えていたのだった。

祖父が繰返し観てくれたのかもしれない。



後半につづく。


こんにちは。メリークリスマスです。

昨日ソロギターの曲を作ったので、スマホで撮ってアップしてみました。
「虹に降る雪」というタイトルです。


音質が激良くないですし、まだ未完成感が否めないですが
聞いていただけたら嬉しいです。


お耳汚しとは思いますが、ひとつよろしくお願いいたします。





では、また!
「逆境に咲く花は、全ての花の中で最も貴重で、最も美しい」

ウォルト・ディズニー

The flower that blooms in adversity is the rarest and

most beautiful of all.


Walt Disney
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前編はこちらへ。



披露宴会場は広く、西洋のお城の舞踏室をイメージさせる
装飾が施されていた。

僕はトンボと、式の時隣だった涙もろい後輩、
仲の良い年下の先輩のイギー、トーマの従姉妹夫妻と同席であった。

トンボが余興で1曲演奏する予定になっており、
緊張で目を白黒させている。


全員が着席した頃合いで、明かりが消えた。
そしてすぐに、丸い光が明滅し、忙しなく動き、色々な場所を照らした。

スポットライトが出入口に集まり、扉が開かれ、新郎新婦が入場した。
大きな大きな祝福の拍手が起こる。

トーマはヨーロッパの皇太子、と言った趣の白い衣装を身に纏い、
奥さんは白雪姫のような襟の開いた白いドレスを着ている。
輝くような美男美女で、映画のようだ。


新郎新婦が着席し、それぞれの会社の偉い人による祝辞の後、
僕らの会社の部長によって乾杯の音頭が取られた。

しばらくは歓談の時間が流れた。お酒と、華やかに盛り付けられた
美味しい料理が席に運ばれる。

友人代表の祝辞が述べられた後、会場の片隅にあるスクリーンで
新郎と新婦と二人の関係の歴史が映像化されたものが上映された。


数々の写真が解説の字幕と共に流れた。
トーマが生まれたての頃のものから、大人になって結婚するまで
順を追って映しだされる。
しゃくれ会の写真もグアム旅行の写真もあった。
トンボの、涙もろい後輩くんの、イギーの、
元木さんの、僕の写真があった。

トーマがそれらの思い出を胸の内で大切にしていることが
とても良く伝わってきた。


VTRが終わり、ケーキカット、ファーストバイトと宴は進み
ついにトンボと元木さんの演奏の時間が来た。

トンボが「行ってきます」と目で言ったので、
「トンボなら大丈夫」と言う思いを込めて僕は頷いた。


ふたりの席とマイクが、先程の影像のスクリーンの前に用意され
司会のお姉さんが元木さんとトンボを紹介する。

元木さんが自己紹介とお祝いの言葉をかけ、曲がスタートした。


僕はその曲を聞いたことがなかったけれど、ギター2本だけの
歌の無い演奏で、すごく暖かくて優しい曲だった。

ふたりとも緊張していたけれど、トーマへの友情が
伝わってくる。


ふたりが演奏を終えると、会場に大きな大きな拍手が起きた。

僕も彼らに届くよう、大きく手を鳴らした。

その曲は山弦というアーティストの春という曲だと
僕は後程トンボに教えて貰った。


帰ってきたトンボは少し疲れていたけれど、
晴れやかな顔をしていた。



お色直しの為に新婦がお姉さんと手を繋ぎ、退席した。

お姉さんと新婦さんはとても仲が良いのだろう、
自然に手を繋ぎ、ふとりとも真っ直ぐに前を見て進んでいった。


お姉さんは華やかだけれど大人の落ち着きのある着物を
着ていて、全ての悲しみから妹を守るんだ、という凛とした意思を
滲ませており、幼い頃のふたりが簡単に想像できた。

強く、しっかり者のお姉さんと、甘えん坊で泣き虫な妹。
お姉さんだって本当はまだお母さんに甘えたかったけれど
可愛い妹のために我慢し、妹を守り、かばってきたに違いない。

お母さんの代わりに、私があなたを見守るわ。
だから安心して幸せになりなさい。

そんな意思がお姉さんの背中から滲み出ていた。



花嫁が退出し、続いてトーマが母親と手を繋ぎ、退席した。

トーマはお母さんにそっくりで、微笑ましかった。


帰ってきた二人は映画の「美女と野獣」の中の登場人物の
格好で、トーマは青い燕尾服を、花嫁は黄色いドレスを着て
赤いブーケを手に持って現れた。
ふたりとも容姿端麗なので様になる。


それから新郎新婦と写真を撮る時間があり、コース料理の
メインディッシュを食べ、酒を飲み、歓談し
新婦が手紙を読む段になった。

その手紙は実家の家族達に宛てられていた。

父親、お姉さん、天国のお母さんに、新婦は感謝を述べた。

私はこの人と、もっともっと幸せになります。

そんな想いが、決意が、細い体から溢れていた。



それから、トーマの父親が挨拶をし、
トーマが会場の皆に感謝の言葉を贈った。


ふたりはその場の全員に祝福され、退出していった。

今まで僕が参加した結婚式で、最も大きな拍手が起こっていた。


僕たちは、トーマとその家族の永遠の幸せを心から祈った。


少し酔ったトンボが涙を拭っていた。





トーマの結婚 完
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お読みいただき、誠にありがとうございます。

トーマやトンボ、元木さんはこのブログの第4章に出てくる友人達です。

良かったらそちらも読んでみていただけると嬉しいです。

第4章「楽器販売員(エレキ)編」


結婚式の後は職場の近くで二次会があり、僕はそれを
手伝いました。二次会には100人以上が集まり、
それはそれは盛り上がりました。良い一日でした。



どうか、ふたりと、ふたりを祝福する者と
この文章を読んでくださった方に、安心と幸福が訪れ
続いていきますように。