「惨めさから抜け出す慰めは2つある。音楽とネコだ。」

アルベルト シュバイツァー
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1998年の2月頃、受験勉強真っ只中の僕と弟に、母から「赤ちゃんが出来ました」と報告があった。
思わず僕は「誰の」と聞き返した。母は当時40歳であった。
母は「私と父ちゃんの子に決まってるでしょ」と怒った。

胎児は既に5ヶ月で、母の年齢が年齢なので安定期に入るまで黙っていたのだと言う。
夏には新しい家族が増えるのかと思うと、嬉しさと困惑が混ざった複雑な感情が胸に去来した。その子がはたちのとき母は60歳、父は64歳で僕は39歳だ。現実感が湧かない。

さらにそれから暫くして、仔猫のはずのエバが妊娠している事が発覚した。

うちに遊びに来た友人が、玄関先でエバが知らない猫と交尾しているのを見たと言っていた事があった。その時の子なのだろう。仔猫が仔猫を生むのは納得できなかった。うちの子になにすんの、と言う感情である。


猫の妊娠期間は65日前後で、新しい赤ちゃんが生まれる直後くらいに猫の子供も生まれるタイミングとなった。


7月に弟が生まれた。

ものすごく安産だったと言う。弟はルカと名付けられた。

直後にエバも6匹子供を生んだ。しかし生き残ったのは2匹だった。
エバは日頃の獰猛な性格を忘れたかのように子供達に母性愛を見せた。仔猫の首根っこをくわえ、より居心地の良い場所に移したり、母乳をあげたり、甲斐甲斐しく子供たちの毛並みを舐めたりしていた。
母が押し入れのなかに段ボールと毛布で猫のために小さな出産と育児用の部屋を作った。猫達はその中で必死に、そして幸せそうに生きていた。


仔猫達は始めハムスターのように小さかったけれど、すぐにすくすく大きくなった。
一匹は猪の子みたいな柄だったので僕たちはその子をウリと名付けた。もう一匹は真っ白だったのでシロと言う名になった。

我が家に一気に命が増えた。

猫達は人間の赤ん坊のルカに気を使っているようだった。適度な距離を守る。


人の子供より猫の子供の方が成長が早い。猫たちはあっという間に大きくなった。

仔猫達が大きくなると、エバは息子たちに敵対心を剥き出しにするようになった。ウリとシロが近づくと歯を剥いて毛を逆立てた。
ルカには相変わらず近づかなかった。ルカから近づいて来たときは、神妙にしていた。


僕は浪人生で予備校の時以外はほとんど家で勉強したりギターを弾いたりしており、自然とルカをあやしたりオムツを変えたりする役割を与えられた。
ルカが寝ないときはディープ・パープルやレッド・ツェッペリンを聴かせた。脳への情報量が多すぎると眠たくなるのだと言う。実際激しい音楽を聴くとルカはすぐに寝た。


半年ほどして仔猫達はすっかり大きくなり母猫のエバの体躯をとっくに追い越していた。
あるとき僕はルカを抱いて2階から階段を降りようとし、途中の段で寝ているシロを思いきり踏み、階段を数段滑り落ちた。僕はルカを護ろうと抱き締めた。幸い僕は尻餅をつく形で着地し、ルカと共に無傷だった。シロの叫びが耳に残ったが、ルカが無事だった安堵感が勝った。

それから暫くして、シロは家を出ていった。

何処かで今も元気でいて欲しいと心から思う。


それから、いつのことだったか正確には思い出せないが、ある日突然ウリが病に弊れた。
そしてエバは独りになった。

その事に対してエバは特に何も感傷を抱いてはいないようだった。


それから僕たちはエバに避妊手術を受けさせた。
子供を埋めなくなったエバは、急に幼くなった。
少しだけ刺が無くなり、以前より甘えるようになり、目が輝いていた。

2年経ち、僕は大学に通い、ルカは喋るようになった。

ルカの最初の言葉はパパでもママでもなく「エバ」であった。


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