随想の練習
自分で書いた記事をしっかり読み返せない、精神的ストッパーのようなものが自動的に作動し、違うことを無意識のうちに始めていることがあったりする。私は近頃、ずっとブログを書くときは長文になり過ぎないように気をつけていたし、頻繁に改行をして見た目を整えようともしてきた。しかし、その反面、内容はさらに散文に磨きがかかり、支離滅裂となっているようである。自分の記事を頑張って読み返して、ちょろっと読んだ限りでそうなのだから全体ではどれだけ細切れになっているのだろうか。自分の中では明確なコンテクストが存在するのだが、その流れを具体的に説明しないまま枝葉の部分だけで語っている私。なので、内容がうまく伝わるはずもない。
自分が書きたいことを書きたいように書いてきて、ただの自己満足でよかったのが昨日までの自分。ミネさんがブログを閉鎖すると知り、返って自分のブログについても考える機会になった。人のブログから様々なものを精神的に頂いてきて、自分が影響を受けているのは確かなことなのですが、私はそれを具体的に明記することがなかった。そればブログによって得た変化をブログに還元しきれていないように感じ、私の中で不完全燃焼を起こしているような感覚を生んでいました。
でも、議論(評論で言うところの批判)をすることを恐れるあまり、それをしてこなかったのも事実。批判というと非難と混同して一般的には使用されますが、私は通常、批判するということは単純に評価することの意味で使用していたりします。読む対象が不特定であるブログでは使用する単語の意味さえも多様な捉え方が可能なため、誤解が生まれやすいこともあるかもしれません。そしてそういった誤解も想定して自分の精神的変化をブログに具体的に還元していく作業には多大なエネルギーが必要であると思います。それでも書きたいことがあれば容易に乗り越えられるのかもしれませんが、私には未知の領域です。
こういったことを書くのはこれから少し重い話をするかもしれないという複線であったりするかもしれません。でも自分で書いたものの誤字にさえ気づけない自分では思ったように議論を続けられない可能性も多々あったり。ここまで書いていてすでに論点が二転三転しているのでそもそも自分の中のコンテクストが明確かどうかが疑わしくなってきてしまいました。
ここまで書いて、今、この記事のタイトルを「随想の練習」と決めました。随想というにはあまりにも空虚であるため、今後ブログで文章を書いていくための予備動作としてこの文字列に意味を与えようと考え、タイトルを練習としました。2008-10-24のミネさんのブログ記事で私のコメントに対する返事を頂いて、その中で“私は「自殺を考えています」という人との関わりがなく、将来そういう方々に会ったらなんとお話したらいいのか、すごく悩みます。
それとも、あまり気にせず普通にお話をしたらいいのでしょうか(●´ω`●)ゞん~どうでしょ~” という文章がありました。私はそれに対して明確な答えがないのと、それについて悩んでくれるだけで価値のあることだと思ったので明確な返事ができずにいました。私が失った友人の一人は明らかな自殺でした。そして自殺したという連絡を受けて初めて悩んでいることがあったことを知りました。その友人の自殺によって複数の人間が死にました。毒ガス自殺を図った本人を救おうとした2人も他界してしまったのです。その友人と同じクラスだった私、なんで?なんなの?という疑問ばかりが頭の中にあり、しばらくして何もできなかったことの後悔の念が湧いてきました。それと同時に、私に自殺を止めることができるのかという疑問も湧いてきました。私自身、生きていることにあまり大きな価値を置いていません。つきつめると重要なのは自分の感情でしかないと考えています。社会的関係性を重視して行動したりするのも自分のためにしているに過ぎないと思っています。だから、真に自分の感情を濫りに侵された時、それを回復するために侵害要因である客体の除去を行うか、主体自体を除外してしまうかの二択しかなければ、どちらを選んでもかまわないと思っているのです。そして後者には自殺が含まれます。ただ、できることなら、私の精神衛生上、私の自我のために、知人に自殺して欲しくはないと願うばかりです。そう願うのは自殺してしまえば、完全な出詰まり、多々あった可能性が奪われてしまうことが損失であると思うからです。本人にとっても私にとっても。
今のところ、これまでの文章はドグマ的であるかもしれませんが、私の中にあるロジックの一部でもあります。
自分が書きたいことを書きたいように書いてきて、ただの自己満足でよかったのが昨日までの自分。ミネさんがブログを閉鎖すると知り、返って自分のブログについても考える機会になった。人のブログから様々なものを精神的に頂いてきて、自分が影響を受けているのは確かなことなのですが、私はそれを具体的に明記することがなかった。そればブログによって得た変化をブログに還元しきれていないように感じ、私の中で不完全燃焼を起こしているような感覚を生んでいました。
でも、議論(評論で言うところの批判)をすることを恐れるあまり、それをしてこなかったのも事実。批判というと非難と混同して一般的には使用されますが、私は通常、批判するということは単純に評価することの意味で使用していたりします。読む対象が不特定であるブログでは使用する単語の意味さえも多様な捉え方が可能なため、誤解が生まれやすいこともあるかもしれません。そしてそういった誤解も想定して自分の精神的変化をブログに具体的に還元していく作業には多大なエネルギーが必要であると思います。それでも書きたいことがあれば容易に乗り越えられるのかもしれませんが、私には未知の領域です。
こういったことを書くのはこれから少し重い話をするかもしれないという複線であったりするかもしれません。でも自分で書いたものの誤字にさえ気づけない自分では思ったように議論を続けられない可能性も多々あったり。ここまで書いていてすでに論点が二転三転しているのでそもそも自分の中のコンテクストが明確かどうかが疑わしくなってきてしまいました。
ここまで書いて、今、この記事のタイトルを「随想の練習」と決めました。随想というにはあまりにも空虚であるため、今後ブログで文章を書いていくための予備動作としてこの文字列に意味を与えようと考え、タイトルを練習としました。2008-10-24のミネさんのブログ記事で私のコメントに対する返事を頂いて、その中で“私は「自殺を考えています」という人との関わりがなく、将来そういう方々に会ったらなんとお話したらいいのか、すごく悩みます。
それとも、あまり気にせず普通にお話をしたらいいのでしょうか(●´ω`●)ゞん~どうでしょ~” という文章がありました。私はそれに対して明確な答えがないのと、それについて悩んでくれるだけで価値のあることだと思ったので明確な返事ができずにいました。私が失った友人の一人は明らかな自殺でした。そして自殺したという連絡を受けて初めて悩んでいることがあったことを知りました。その友人の自殺によって複数の人間が死にました。毒ガス自殺を図った本人を救おうとした2人も他界してしまったのです。その友人と同じクラスだった私、なんで?なんなの?という疑問ばかりが頭の中にあり、しばらくして何もできなかったことの後悔の念が湧いてきました。それと同時に、私に自殺を止めることができるのかという疑問も湧いてきました。私自身、生きていることにあまり大きな価値を置いていません。つきつめると重要なのは自分の感情でしかないと考えています。社会的関係性を重視して行動したりするのも自分のためにしているに過ぎないと思っています。だから、真に自分の感情を濫りに侵された時、それを回復するために侵害要因である客体の除去を行うか、主体自体を除外してしまうかの二択しかなければ、どちらを選んでもかまわないと思っているのです。そして後者には自殺が含まれます。ただ、できることなら、私の精神衛生上、私の自我のために、知人に自殺して欲しくはないと願うばかりです。そう願うのは自殺してしまえば、完全な出詰まり、多々あった可能性が奪われてしまうことが損失であると思うからです。本人にとっても私にとっても。
今のところ、これまでの文章はドグマ的であるかもしれませんが、私の中にあるロジックの一部でもあります。

