人の定義
私は人は人を定義することが出来ないという立場にいます。
それでも、ふと、人ってこうだよね、なんて、思ってしまうことがあります。
多分、立場は論理的思考によって、自身の最先端最前衛の場所を見出した結果ですが、
対して、ふと、なんて思うときは論理的思考なんか置いてけぼりで、もう夏だなぁと思うのと同じくらい、ふと、思ってしまうのです。
そんな前置きをしてまで、わき上がってしまった思いを書いています。
人は情報の塊であり、観察者。世界は情報の塊であり、観察物。
我思う故に我あり、なんて言葉、当然過ぎて、なに当たり前のこと言ってるの?と笑ってしまう現代の私達、
我あり故に我思う、なんて言うのも愚かだと思われるほど当たり前。
人は情報を得る。情報を生み出す。世界は情報。
物理現実を観察した瞬間
物理現実を抽象化した瞬間
物理現実に意味を見出した瞬間
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物理現実は物理現実としてただあるだけ、ただあるだけなら観察されずにあるものとされない。しかし無ではない。
!?
書いていて数週間前、友人から酒の席で聞いた話を思い出しました。
彼は無という概念がおもしろいという。私が私は近代合理主義に支配されてしまっているという言葉を放ち、それへのアンチテーゼのように言おうとしていた ように見えた(文脈的に)
彼は文系で、その説明はかなり宗教的で、うさんくさく、西洋思想と禅とか、日本人は昔から無の境地をしっていたとか、
正直かなり私にとっては生理的に気持ち悪いことを言っていると思っていましたが、
なんて失礼な事をしてしまっていたんだろうwww
私は無という状態が“ある”のだろうということは考えられます。しかし“ない”という状態に単独で触れることは不可能なのです。(近代合理主義に支配されている私は、という意味です。感じられると主張する人を否定するつもりはありません。)
無という状態だとふわふわしすぎるので、ゼロという言葉を使います。座標のX軸とY軸が交わった部分がゼロであることはわかります。【記述中断】
本棚に本をつめたとして、そこに数冊分空きがあることには気づけますが、【記述中断】