フレーム問題ともやしもん
私達はフレーム問題に似たものには直面します。
ある事象を思考すると、思考すべき対象が無限大に増大する減少は日常的にあります。(少なくとも私にはよくあります)
今日、『もやしもん』9巻を読んでいて、(数ページ読んでは10分ほど思考するという読み方を電車内でしてました)すぐに思考量が増大し、思考する意味を放棄するに至ります。あまりにも考えるべき事象や確認すべき対象が増大すると電車で漫画を読みながら考えるのは割に合わないと思うのです。割に合わないというのは得られるであろう結果とその過程にある労力を天秤にかけているだけなので、実際には予想以上の結果を得れたり、過程に価値があるかもしれませんが、その調査すら概略的思考で終えてしまいました。
結局、もやしもん9巻の半分も読み終わりませんでした。
その前半の多くの議論は単純なもので、法律の分野でも『一般市民に知ってもらうことの重要性』に昔から気づいていたし努力してきたのでしょう。農業やそれに関する貿易、それらが生む利益による人間の行動(含、政治)についての議論も『消費者に知ってもらうことが重要』と作者は結んでいました(9巻前半しかよんでいないので後半で別の主張がなされている可能性もありますが)。
賢い消費者、中立なマスメディアを求める議論は1980年代にはすでにあった議論です。30年以上経てようやく、漫画で語られてもある程度の説得力を保っていられる現実感、またそれを受け入れる土壌が育ってきたのでしょうが、
近代合理主義の進展による核家族化の伸展、都市部の人口増加といった問題、一次産業から二次産業、二次産業から第三次産業と変化。そして長寿化、医療技術の進歩。それらと同時に発生していた、既存のコミュニティを失ったことによる弊害が噴出してきました。地域社会や三世代以上の家族が協力して子育てをしたり、食材はある程度狭い範囲で流通していたり、、、、それが変化している様子はみんな知っていますってばwwww私だって少なくとも2000年以降は物心ついてますから知っていますし、小学校で習いましたよ。
そんな諸問題を解決するマジックワード『個人が情報を得て、判断し、行動すればいい』という古典的な近代合理主義だったり個人主義の思想を持ってきて済ます。かつて教会だったり神様が背負っていてくれたことを自分で背負輪なければならなくなった時代の話が、今も繰り返されています。
個人個人の注意喚起、NGOによる草の根活動、一定の方向性だけを示し残りは別の議論でと放り投げたり、大学受験の小論文の技法にまで落とし込まれている思考を、大のオトナがやっているwww
未成年の頃は、オトナはある程度思考能力があって、充分な事理弁識能力を備えた理性的な存在だという幻想を持っていました。
別に政治家に政治学の知識を求めたりはしませんが、自分の発言の意味くらいは客観的に理解して欲しいと思ったり、、、、国民の代表になろうとするんだったらさーwww