脳死 | 片付かない部屋のアトリエ

脳死

脳死を死の定義に完全に繰り込むとか。

死の定義、そもそも死とは何かの話、裏を返すと生とは何かの話。

胎児は生物としては生きているが、人としては生きていないという定説。

胎児に対する人権が認められた判決も存在するようですが(判例ではないようです)。
それは<人として生きる可能性>に価値を見出すことでしょうか。

殺人罪は<人として生きる可能性>を絶つこと(作為)で罪として成立します。

不可逆的に、再び活動する可能性がなく、脳機能が停止した場合、<人として生きる可能性>が消失した場合、これを死と定義することは一見、通っているようです。

ここまで私は<人として生きる可能性>というものに立脚して死を考えました。では、<人として生きる可能性>とはなんでしょうか。生物として活動状態にあるものを生きているというのならば、脳は死んでも身体は生きているケース、脳死では脳以外は生きています。でも、<人としては死んでいる>とみなすことで死と定義することは無茶苦茶です。

我思う故に我あり、、、それから、我々思う故に彼、彼女あり、、、。

人(彼、彼女)が<人>であることを定義するのは人(観察者)。よってその基準は千差万別、多種多様。異教徒を悪魔として<人>ではないという考えも通念となれば通ってしまいます。それが、この世界(もしくは社会)。

脳は理性や本能の根源となる機関、およそ人間らしい行動をとれば<人>であり、そうでなければ<人>から外れる。意識も消失し身体保全機能を失った人間はもはや<人>ではなく体(死体の意味)であるとする考え。そういった<1つの>考えによっては脳死は死とみなすことが可能となっているようです。

およそ人間らしければ<人>、というほうが厳しくて、およそ人間らしからなければ<人>ではない、というほうが容易いのもなぁ、、、

<人>になるのが難しくて

<人>から外れるのが容易な世界に

私は住んでいるようです。

なんか、死刑も気になってくるなぁ。


まぁ、私の立場

原則禁止。通常対応では死と判断することになるとになるでしょうが。

脳死判断を下したことを発表し、差し止め請求(←ちょっと正確な言葉ではありませんが)がなく30日を経過したら死亡と決定。

その間(30日間)は生存していたとし、医療保険がおります。医療費はそれまで支払っていた人物が支払いますが、差し止め請求の審議によって延長した分の治療費の、差し止め請求者に求償権を持つ、とします。

この30日という設定は長いほうがいいと考えましたが、医療費負担の面から15日程度に短縮することもありかと。

問題点として、脳死者の実名を発表する点があります。これはまだ脳死者を生きていると認識する人間が信じている<脳死者>の法益を保護する目的ため、認識している人間が名乗り出る機会が必要になります。よって、官報に掲載する等の対応になると思いますが、公表の必要性が存在します。

でも、脳死というケース自体が稀有な現在、提供者名を公表すればレシピエントがその臓器の所有者を知ることになると想像されます。これは臓器移植のルールに触れそうです。


うーん、もしくは行政として国立病院において一手に脳死判断を引き受け、国対遺族の構図の訴訟で判例を重ねていくというのも思いつきました。公務員が脳死判定を行う制度をつくる。これは現実的ではない気がしますが、まだ、全然検討していないアイデアではあるので要検討。制度自体にたいする違憲立法審査権とかはなぁ、違うだろうなぁ。行政執行差し止め請求とかかなぁ。

あぁ、なんか、裁判所(司法機関)に立法させようとしている自分がいる、、、だめだなぁ。政治不信の影響と片付けてしまいたい。