個人、情報、オリジナリティ
個の重要性が相対的に低下していく。大量の情報にアクセスできるようになり、検索能力も向上すればより情報をピンポイントで入手可能となり、その経路がは大幅に簡素化されるでしょう。たとえば、かつては自らが移動して図書館に出向いて書籍の所在を検索して書庫に降りて取ってくる(または司書の方に取ってきてもらう)作業をし、本の目次を見て(もしくは本の引用元に書かれたページ番号を見て)目的の文章のページを開いて初めて目的の情報の閲覧が可能となっていました。しかしデジタルに情報を管理する現在(またはもう少し未来)では検索してヒットした文章を表示させるだけで閲覧可能です(たとえばジュリストなどの雑誌)。そしてその文章から様々な文章へ転々とジャンプ(電子辞書の機能)していくことで膨大な情報に短時間でアクセス可能です。
かつてはそこに時間がかかっていたことで、作者名、著者名を意識する時間が現在より長かったのですが、現在は文字列を1秒も眺めずに、作者名をチラッと見ただけで次の情報を入手することができるので(著者名を起点として検索する以外、)ほとんど著者名を意識しなくても済んでしまいます。すなわち、情報の製作者よりも情報が重要であって、作者名は目的とする情報の中に付随する情報にすぎないという認識がより強くなります。よって個人という認識はあまり重要な意味を成さず、たんに検索するときのタブのようなモノに過ぎません。これは情報化社会が訪れる以前から言われていたことなので私が生まれる前から社会は覚悟していたことでしょうが。
ただ、個人の名前が検索ワードになるのはその個人にオリジナリティがあることの証明かもしれません。記号化される価値があるといえます。その面からみれば個の重要性というか、個の存在は一向に減少することはなく、むしろ増加していくでしょう。たとえば、会社員Aさん、スイカで乗車区間と入場退場時間がわかり行動時間を知れますし、キオスクで購入したものをから嗜好を予想可能です。継続的に情報を収集すればより正確な個人の行動規範を分析できます。よって、無名の人間もその名前によって管理し、(経済的に)価値ある情報を抽出可能であるということです。ただし、私たちが情報を管理するときは個人名は単なる文字列にすぎないのでその会社員Aさんに個性は全く感じないのですがw。
ああ、かなり論点にぶれがありますね。個人についての定義が曖昧すぎました。そもそもオリジナリティとは何か?という問題があります。上記文章から私はオリジナリティなどないという観点に立っているようです。もしくは世界はすべてオリジナルであって、概念的にをれを単一視しているにすぎないという考えです(どちらも私の観点です)。この世に遍くAというものがあればAというものを無視しても全く問題はない、というような考え方でしょうか、、、うーん少し違う気もします。方程式で両辺に共通する項を消せるイメージで、、、A(a+b)=A(c+b)をa+b=c+dと同じものと言えるようなイメージです。だからオリジナルがないというのが幻想であってこの世界にはオリジナルしかない、ですが人間の認識は抽象化していくことで成立しているので具体的に存在しても瑣末なものはすべて抽象されオリジナルではないと判断されたりします。
これは人間が生きていくには不可欠なものかもしれません、情報処理能力と生命活動に限界があるようなので物理的障害(生老病死など)が排除できれば違う認識をするのかもしれませんが。たとえば、私は現在大学のコンピュータルームにいて無数の端末に囲まれていますがすべて同型機種です。だから個別に見れば傷の付き方だったり張られた認識番号だったりそのシールの傾き加減だったり違いは多々存在します、もちろん存在する空間座標も違うので全く違うコンピュータが存在しますが、私はすべて『コンピュータ』と抽象していますしここでいちいちすべての違いを羅列することに意味を感じません。
この抽象の仕方は場合によって異なるのは当然のことです。たとえばこの中で大学のサーバーに10分前にアクセスした端末にウイルスの感染の疑いがあるとします、その場合はアクセスした端末とアクセスしていない端末を区別します。これは検索にも大きくかかわる思考かもしれません。よって、もしかしたら数学的にオリジナリティを解析できるのかもしれませんし、既にされているかもしれません。