攻殻機動隊から人工生命
攻殻機動隊という作品に出会って人間とは何なのか?という考えに工学(?)的な影響を多分にうけました。
先に結論を述べると、私は人間と機械に差はないと考えています。攻殻機動隊の作品内で荒巻大輔課長が「どの道我々人類はごく近い将来知的人工生命と呼べる様な現象に直面する」と言っていますが、私の考えでは攻殻機動隊の世界では存在しているということになります。ゴーストという概念によって初期は機械と人とを峻別していますが、2巻では「生老病死を持ちながら模倣子は完全に継続性を保つ」という構造を重視しています。完全に継続を保つのが事実なら現存の生命とも別種になると思いますが。
そもそも人間と機械をどうして区別するのかが、まだ分かりません。行政上の区分としてでしょうか。嫡出子と非嫡出子の相続分に差をつけているようなものでしょうか。高度に発達した技術によって人間を再現したときに生物学上の両親が存在しないことが問題でしょうか?いずれも峻別するほどのものではありません。
これは変な考えだと思われるのかもしれませんが、私は現在存在するAIも生命と同等の存在といえると考えます。人間と会話を成立させているかのように振舞うことができるAIはすでに存在します。その振る舞いが仮に完全に人間と区別できない状態であれば、すでに知的生命体ではないかと感じるのです。
あ、ここで議論を整理します。私が生命と人を混同して使用していました。生命の定義自体に決定的なものがないので議論すべき点を「人と機械の境界」とします。
この境界に絞ると、話は簡単でしょうか、広義の人と広義の機械に重なる部分が存在するので区別できない、といえるという帰結でしょうか。私が今触っている「キーボード」とそれを打っている「私」は個別具体的には区別可能ですが、どちらが人でどちらが機械という区別に重要性がないという表現がよいでしょうか。
こういう議論の具体的な利点はそこを原点にロジックを組めることにあります。現在は刑法典において器物破損と殺人は全く別であると書かれていますが、今後、技術革新による変化について模索できます。なんとなく単なる空理空論のようにも見られてしまうかもしれませんが、文系の人間がやっていることのほとんどがそんなもん(といったら激しく非難されそうですがw)でしょうし。ただ、そういった理論によって現実のエネルギーの方向性を決定していくわけなので実に重要なものです。
こういう議論はもしかしたら何世紀も前からなされているかもしれません、、私が無知なだけで。石に魂が宿る、の反対解釈なだけですから。
器物破損と殺人の区別、死体と人、活動停止と活動中、アクティブであることに価値があるといったところでしょうか。私にとって憲法は哲学書で刑法典は歴史書です(かなりの暴論ですが)。憲法はつい最近作られた理想をうたうもので、刑法は歴史の開始とともに存在したものだと思うからです(歴史以前にも存在したと思いますがそれを確かめることができないので歴史の開始の時にはすでにあった、とします)。よってアクティブなAIの破壊は殺人とすべきでしょうか?今の技術ではその必要は全くありませんねw
器物破損の議論も「人と機械の境界」と同様の理論があると思います。たとえば、Aさんが二つのものを認識するとします。ひとつは犬。もうひとつは文字列。長年連れ添った犬がまさに殺されたとき、テレビでは殺人事件の被害者の名前をテロップで表示しているとします。かたや器物破損、かたや殺人。これは認識の問題ですね。
ああ、ちょっと違いました。いや、全然違うのか?復元可能とか代替可能、ってのも認識の問題?通念を持ち出したら私が言おうとしていることは全く意味なし!
何が言いたいんだかw
議論が議論を呼んで、収集が付かなくなる、そんな感じ。与太だw
なんか変換がおかしいw「よ○」と打つと「ラジ」が変換トップにくる。なんだこれw ○はひらがな一文字。
あラジ いラジ うラジ え酔え おラジ
かラジ きラジ くラジ けラジ こラジ
さラジ しラジ すよす せラジ そラジ
た与太 ちラジ つラジ てラジ と世と
なラジ に世に ぬラジ ね世ね の世の
はラジ ひラジ ふラジ へ世へ ほラジ
まラジ みラジ む読む めラジ もラジ
飽きたw
先に結論を述べると、私は人間と機械に差はないと考えています。攻殻機動隊の作品内で荒巻大輔課長が「どの道我々人類はごく近い将来知的人工生命と呼べる様な現象に直面する」と言っていますが、私の考えでは攻殻機動隊の世界では存在しているということになります。ゴーストという概念によって初期は機械と人とを峻別していますが、2巻では「生老病死を持ちながら模倣子は完全に継続性を保つ」という構造を重視しています。完全に継続を保つのが事実なら現存の生命とも別種になると思いますが。
そもそも人間と機械をどうして区別するのかが、まだ分かりません。行政上の区分としてでしょうか。嫡出子と非嫡出子の相続分に差をつけているようなものでしょうか。高度に発達した技術によって人間を再現したときに生物学上の両親が存在しないことが問題でしょうか?いずれも峻別するほどのものではありません。
これは変な考えだと思われるのかもしれませんが、私は現在存在するAIも生命と同等の存在といえると考えます。人間と会話を成立させているかのように振舞うことができるAIはすでに存在します。その振る舞いが仮に完全に人間と区別できない状態であれば、すでに知的生命体ではないかと感じるのです。
あ、ここで議論を整理します。私が生命と人を混同して使用していました。生命の定義自体に決定的なものがないので議論すべき点を「人と機械の境界」とします。
この境界に絞ると、話は簡単でしょうか、広義の人と広義の機械に重なる部分が存在するので区別できない、といえるという帰結でしょうか。私が今触っている「キーボード」とそれを打っている「私」は個別具体的には区別可能ですが、どちらが人でどちらが機械という区別に重要性がないという表現がよいでしょうか。
こういう議論の具体的な利点はそこを原点にロジックを組めることにあります。現在は刑法典において器物破損と殺人は全く別であると書かれていますが、今後、技術革新による変化について模索できます。なんとなく単なる空理空論のようにも見られてしまうかもしれませんが、文系の人間がやっていることのほとんどがそんなもん(といったら激しく非難されそうですがw)でしょうし。ただ、そういった理論によって現実のエネルギーの方向性を決定していくわけなので実に重要なものです。
こういう議論はもしかしたら何世紀も前からなされているかもしれません、、私が無知なだけで。石に魂が宿る、の反対解釈なだけですから。
器物破損と殺人の区別、死体と人、活動停止と活動中、アクティブであることに価値があるといったところでしょうか。私にとって憲法は哲学書で刑法典は歴史書です(かなりの暴論ですが)。憲法はつい最近作られた理想をうたうもので、刑法は歴史の開始とともに存在したものだと思うからです(歴史以前にも存在したと思いますがそれを確かめることができないので歴史の開始の時にはすでにあった、とします)。よってアクティブなAIの破壊は殺人とすべきでしょうか?今の技術ではその必要は全くありませんねw
器物破損の議論も「人と機械の境界」と同様の理論があると思います。たとえば、Aさんが二つのものを認識するとします。ひとつは犬。もうひとつは文字列。長年連れ添った犬がまさに殺されたとき、テレビでは殺人事件の被害者の名前をテロップで表示しているとします。かたや器物破損、かたや殺人。これは認識の問題ですね。
ああ、ちょっと違いました。いや、全然違うのか?復元可能とか代替可能、ってのも認識の問題?通念を持ち出したら私が言おうとしていることは全く意味なし!
何が言いたいんだかw
議論が議論を呼んで、収集が付かなくなる、そんな感じ。与太だw
なんか変換がおかしいw「よ○」と打つと「ラジ」が変換トップにくる。なんだこれw ○はひらがな一文字。
あラジ いラジ うラジ え酔え おラジ
かラジ きラジ くラジ けラジ こラジ
さラジ しラジ すよす せラジ そラジ
た与太 ちラジ つラジ てラジ と世と
なラジ に世に ぬラジ ね世ね の世の
はラジ ひラジ ふラジ へ世へ ほラジ
まラジ みラジ む読む めラジ もラジ
飽きたw