空乏層のブログ -423ページ目

森の散歩道

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『IMGP0011』
 鶯谷は上野公園出口を右に折れ、急坂を登り突き当たってさらに右へゆくと、上野の森の北のはずれに出る。しばらく歩くと、いきなり右手にこの山門に出くわす。東叡山寛永寺の山門である。寛永寺さんは徳川家縁のお寺さんだが、あの戊辰戦争の上野戦争で官軍相手に最期の将軍慶喜擁護の彰義隊が立てこもって戦ったお寺さんでも知られている。そのまま公園の塀に沿って歩くと、霊園が切れるところに五代将軍家綱の墓の石垣がある。見とれて気がつかなかったが、足元の歩道は苔むしていて、どんぐりが沢山落ちていた。太ったすずめがその大きな実をつついている。手が使えないから実がつつかれてどんどん先へころがり、落ち葉の下に隠れてしまい、それを嘴でまた掘り起こしている。すずめも大変だ。また歩くと、今度は銀杏が潰れた跡の白い歩道が公園に向かって続いている。周りの建物がまるで明治時代に迷い込んだ様に威風堂々と建っているのが見えた。きっと大村益次郎率いる官軍は彰義隊討伐にその道を通ったことだろう。

私の祖父母、両親のお墓が家綱公の墓の下にある。祖父の先祖と徳川さんとは縁もゆかりも無いのだが、北上する戊辰戦争と微妙に関わっていることが最近分かりかけてきた。その墓に眠る我が母の祖父は函館戦争の生き残りの会津藩士だったというから、さらに私の好奇心を刺激している様だ。上野の森の北の方向へ長い旅に出るのもまた楽しかろうと思っている。


高輪三丁目界隈

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『IMGP0016』
品川駅西口を出ると正面に見えるこの坂道、名前はないが私の生家のあった所に通じる道である。その中ほど左側にコイトさんというタバコ屋さんがあった。私は百円札を持ってチョコレートを買いに来たそうだ。びっくりしたコイトさんは、私の手を引き、家まで連れて行った。話しを聞いた母親は庭の柿の木に私を縛り、夜まで寒空の下にさらしたそうだ。コイトさんの辻向かいにはホテルがあり、進駐軍の兵隊さんが出入りしていたのを覚えている。幼かった私は、ギヴミーチョコなどという言葉を知らなかったから百円札を盗んで買いに行ったのだろう。反対側は広大な宮様の庭園があり、忍び込んではよく真ん中にある池でトムソーヤーをやったものだった。その跡地には某ホテルのカフェテラスがあり、心地よい秋風の下、何人かの婦人がカフェタイムを楽しんでいる様だった。坂道を登りつめたところには、旧財閥の学校があった。その敷地に初等科の教頭をしていた祖父の家があった。そこで私は生を受けたそうである。その頃は港区芝高輪南町と呼んでいたが、今は港区高輪三丁目だそうだ。宮様の庭園の土塀は今は鉄のフェンスと白壁となって、白金や猿町方面へ懐かしき道に沿って名残をゆっくりと下って運んでいる様に見えた。

東京の空

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『IMGP0007』
この坂を登り、しばらく真っ直ぐ歩くと九段の靖国神社がある。なんとも粋な名前の付いた坂、「袖すり坂」という名の坂道である。道が狭いから袖が触れるのかもしれない。他人であってもそこで袖触れ合えば、いい仲になれるのかな、・・・。さはさりながらだ、靖国辺りの空を見てくれ、誰かがレモンをかじりながら言った如く、まるで東京には空がない様な風景じゃあないか。

この交差点を右に折れれば外堀通り、皇居のお堀は半蔵門左手に出れる。そこからは晩秋の東京の空が広がっている。今度機会があったら、ゆっくりと皇居の北側を歩いてみようと思う。今日は、滝廉太郎の住んでいた角っこを左に折れて、旧日テレ通りを歩いて、新宿通りに出た。馴染みの甘もの屋さんに入ってみた。幸い、10年前のお店の風情は変わっていない様だった。

通りの向かい側に「農業会館」がある。よく狭い会社の会議室で陰気な会議をやるのが厭で、そこの会議室を借りたものだった。なにしろ、会議室でタバコがすえるのだ、おまけに、コーヒーは注文すれば、いつでも運んでくれるから、自由闊達な議論ができるというものである。但し、嫌煙家のうるさ型女性陣には悪評だったらしい。勿論会社はそんな経費は認めてくれないから、自腹での会議となるのだが、それでも快適空間には変わりはなかった。そんな了見だから、東京の空を狭くしていたのかもしれないな、・・・。

大きな栗がおわんに浮いた善哉は、小さな焦げ目のついたお餅を無理に沈めて食べると、このうえなく美味い!年末にかけて恐慌不況が襲ってくるとはどうしても思えない雰囲気を味わった一日だった。