こんにちわ!皆さんお変わりありませんか?コーネリアスです。今回は、我々が日常普通にやってる事、『物事を考える』という事をテーマにしてみたいと思います。

ある立場の人には、考える人は邪魔な存在かも…?

 

 

 さて、我々人間は、日常的に色々ものを考えながら生きています。普通であれば、この作業をせずに生きている人は居ないと思います。色んな事を我々は考えます、思考します。仕事、勉強、対人関係、恋愛etc…多分、人それぞれではないでしょうか?そうした事の中には、なんかとてもいわゆる『高尚な』もの、世の中の真理の追求、なんてものもあると思います。真実の追求なんて言い換えても良いかもしれません。物事の本質、事柄の真実を追う、求める、知るという事ですかね。人はコレを科学って言ったり、哲学と呼んだりするのかもしれません…

ソクラテス像

 

 そう、哲学って、ソクラテス以来真理の追求だもんね。又、科学というものも別の意味で真理の追求かもしれません。ところで、皆さん、この『真理の追求』って、歴史的に検証してみたら『命懸け』の作業だって知ってましたか?

 先ずソクラテスですが、結局彼はどのような最後、死に方だったでしょうか?真理の追求、哲学を行った彼の最後は、何と刑死です。つまり死刑になり生命を落としています。でも、死刑に処せられたという事は、当時彼が何か罪を犯したからじゃないの?と、まあこう考えますよね…でもね、此処はイエスキリストの場合と同様で、彼は罪らしい罪は犯してはいなかったのです。その時の彼への罪状は、『アテネの国家が信じる神々とは異なる神々を信じ、若者たちを堕落せしめた罪』だそうで、コレは正に冤罪、濡れ衣、言い掛かりみたいな罪状で公開裁判にかけられ、死刑判決が出ているのです。当時彼の弟子の中にはアテネの政治家たちも居ました。その弟子の彼等が隣国スパルタと戦争を引き起こしてしまうのですが、アテネはこの戦争に敗れてしまいます。何と、ソクラテスはその責を問われたのです。当然ですが、別にソクラテスは彼等に戦争しろと扇動した訳でもありませんでした。なのですが、『ある勢力(政界)』はきっと彼が邪魔な存在だったのでしょう。『これこそ絶好のチャンス』とばかりに彼を追い詰め、最終的に刑死させました。

ソクラテスの死

 

 ですが、記録によるとその後、彼の死についてアテネの多くの人々が悲しみ、後悔し、更に不信の声が上がり、罪状が実はでっちあげで、彼には罪が無かった事が分かると、アテネ市民たちは、告訴人たちを裁判無しで処刑したそうです…悪い事の報いがあった。バチが当たったって事ね。

 

 

 これと似た事は時代を飛びますが、中世ヨーロッパでも起きてます。今度は哲学者じゃなく科学者ですが、例のガリレオの宗教裁判です。教科書でも習う有名な話です。そもそもガリレオは大変熱心なカトリックだったそうです。毎日曜日の教会ミサは怠る事は無かったそうです。そんな彼が教会が押すいわゆる『天動説』に対し、『地動説』を唱えてしまうから、さあ大変。彼もソクラテス同様今度は教会から告訴され、死刑判決が出されそうになります。が、ここで、教会側から条件が出され、もし彼が地動説を捨てるならば、死刑は免じてやろうというものでした。彼も人の子。背に腹はかえられぬわけですから、当然この条件を飲みます。こうして地動説を彼は捨て、どうにか命拾いしました。私コーネリアスは、この裏には彼の常日頃の熱心な信仰心が多少は影響していたんじゃないかとも思います。教会側関係者も見てたでしょうからね、彼の姿は。殺してしまうには惜しい存在と思ったのかもしれませんよ…いずれにしても、彼も今度は科学というものを通して、『真理の追求』を行う人でした。でも、そこから得られた結果が、当時の権力者、バチカンにとっては大変都合の悪いものだったわけです。その為一旦は命を狙われたわけですが、今で言う情状酌量ってヤツのお陰で救われたというわけです。

熱心なカトリック信者だったガリレオ

 

 

 さて、次は少々時代が降ってデカルトとスピノザです。17世紀です。現代にも大変大きな影響を与えている、この2人の大哲学者もその自説の影響で身の危険を案じる経験をしています。デカルトは、心身二元論を唱え、実は神についても彼自身の自説を持っていたようなのですが、生前は公開しなかったようなのです。理由は、やはり当時の教会(カトリック勢力)に忖度した為のようです。17世紀もまだまだカトリックの力は多大なものがあり、教会の教えに反する事をしようものなら、容赦なく火炙りの刑だったみたいです。彼はそれが怖かったんです。そりゃ当然ですかね。

『我思う故に我あり』は、人間の『意識』の大発見  ルネ・デカルト

 

 

 次いでスピノザですが、実は彼はユダヤ人です。子供の頃からユダヤ教のシナゴーク(会堂)に通い聖書を学んでいたようです。そんな彼ですが、彼は子供の時分から大変頭が良く、他の誰よりも聖書理解が深かったみたいです。ユダヤ教のラビたちとも聖書に関して深い議論をしていたそうです。そんな彼が大人になって提唱した有名な説が『汎神論』と呼ばれる説です。この説は一言で言うなら、神=大自然(全宇宙)という壮大なもので、全てのものは、人間も含めて神の変状、神の一部だというものです。ユダヤ教でもキリスト教でも神はいわゆる人格神とされていますので、当然ですが彼の説は当時としてはぶっ飛んでるものです。到底受け入れられるものではありません。彼がキリスト教教徒であれば、すぐさま火炙りの刑となるところなのですが、上記の通り、彼はユダヤ人だったので、そうなる事はありませんでした。がしかし、彼はユダヤ教側から破門されます。『お前はもう2度とシナゴークへ来るな!出禁だ!出禁!命があるだけ有難いと思え!』と言い渡されました。いわば、ユダヤ人にも拘らず、ユダヤ共同体から村八分にされてしまったわけです。で、これだけで済むかと思いきや、後日彼は、狂信的ユダヤ教徒からナイフで斬り付けられるという、いわゆる『暗殺未遂事件』を受けます。幸い致命傷には至らず、切り傷のみで済みましたが、間違い無く命を狙われたわけです。

汎神論を唱え、命まで狙われたベネディクトゥス・デ・スピノザ

 

 

 こうして見てみると、ソクラテス、ガリレオ、デカルト、スピノザ皆、哲学や科学を通して真理を追求した人たちです。また共通している事として、その結果、命を落としたり、殺されそうになったり、その為に権力者に対して自説について忖度したりしています。つまり命懸けだったって事ですね。でも、どうしてそうなるんでしょうか?それは、彼等が一様に『考える人』、『真理の追求者』だったからに他なりません。それが何故悪いのか?答えは、その時々の為政者、権力者側に不都合だからです。

 

 これはいつの世も同じじゃないかと思いますが、為政者、権力者にとって都合の良い民、人々というのは、実はあまり深くものを考えない人々だと思います。だってそうですよね。その方が統治し易いから。要は、実に政治的な話ですが、素直に権力者側の意見、考えに従って貰わないと都合が悪いわけです。ガリレオなんかホント良い例ですが、それが新たな真実、真理となってしまうと、権力者側の存在が脅かされてしまうわけですよ。そりゃねえ、必死になりますわ、自分たちが永年かけて守って来たものを守る為にはね。なので、これはある意味普遍的なものかとも思いますが、いつの世も権力者側にとっては、民は考えない人であって欲しい筈です。ちょっと言い換えると、そうじゃなければ民を上手く『洗脳』して、統治出来ないからね…最近だってそうじゃないですか?コロナ禍のワクチン騒動なんか…ちょっと前まで政府もマスコミも、狂ったように『ワクチン接種!ワクチン接種!』って喚いていたけど、コロナそのものの事が科学的に解明され、また、ワクチン接種による害がこれまた科学的に解明されると、次第にそのトーンが下がって来た。副反応で、どれだけ多くの日本人が亡くなってるか、マスコミはまともに報道すらしない(💢)‼️YouTubeなんかもそうだけど、ワクチン接種に批判的な、若しくはその危険性を指摘している某有名国立大学教授の動画が、バンされたりとかね。政府の方針は、『ワクチン打て』だから、ここはマスコミさんたちと一緒だから、そうなるんですかね…国も安全の確信があるんなら、この教授に堂々と反論すれば良いだけの話のように思う…一個人の発言そのものをバンしてしまうのは、やり方がどう考えてもおかしいと、私コーネリアスは思いますが…皆さんはどうですか?因みに、ワクチン接種については、カナダ🇨🇦では、国が『確かに危険性も証明されている為、皆さん無理して打たなくても良いですよ。』と国民にコメント出してるそうですが…それに対し、我が国🇯🇵は、いつまでこんな事を続けるつもり?何でもかんでも現代の宗主国『アメリカ🇺🇸』の言いなりか、我が国政府は?

 …そうは言っても、確かにこの人の世の中、いつの世も『なるようにしかならない』とは思いますが、僕等も少しは見習おう、先人達、ガリレオやソクラテスたちをね…

ワクチンを打つ自由も有れば…

 

ワクチンを拒否する自由があっても良い筈だ!

 

 

 だからこそ、皆さん、今こそ情報に踊らされるのでは無く、皆で『考える人』になりましょう。起きた現象、事象を冷静に受け止め、一人一人で自立して思考しよう。そして、辿り着いた意見を交換し合い皆で考えよう。そして建設的な結論を導こう、皆の為に。そして次にそれを実行して行こう。行動に移そう。何故なら、そうする事が真に我々が自由に生きるという事になる筈だから…先ずは考える癖を身に付けようじゃありませんか。