こんにちわ。皆さんお元気ですか?コーネリアスです。今回は、『法と道徳』という事をテーマに考えてみたいと思います。私コーネリアスが最近少し気になる事があります。それは、ニュース等で報道されている、いわゆる事件内容なんかを見た時です。道徳的には、『それは普通考えて如何なもの?』と思う事でも、その当事者が、『私は悪くないですよ!だって法に違反する事なんて何もやってないでしょ!』的な発言をする事が多々見られるという事です。そう言われると、正直私も閉口せざるを得ません。だって、確かにそうなんだからね。ルール守ってる人は否定出来ないよ、大抵そう言う場合はね…ただ、最近は、何となくですが、そう言ったルール(法)遵守の方ばかりがクローズアップされていて、ルールさえ守っていれば、後は何をやってもいい、みたいな風潮というか、そんな『空気』が世に蔓延しているようにも感じます…こう感じるのは、私コーネリアスだけでしょうか?…貴方の職場にも居ませんか?こんな感じの高学歴で、いわゆる理性第一主義の『律法主義者』が…

 

日本国憲法(原文)→我々人の世はルール(法)があるから安定している。法には罪と罰の原則があるからだ…

 

 

聖書→道徳は永らく主として、宗教界で培われ、伝えられて来た。人間の血と汗と涙による経験値の集大成…

 

 

 我々が日常生活を営んで行く中で、目には見えないけど、我々を静かに、でも確かに縛っているもの、そうしたものが私は法と道徳だと思います。私コーネリアスは、何方も大変尊いものだと思っています。そこで、先ずは明確に定義してみましょう。法と道徳と言うものは…

 

①法→人間が社会生活を営む上で、人間が人間の為に作り出した行動規範であり、ルール。これに違反した場合は、対象者に対して罰則が課せられるというもの。→罪と罰の原則

 

②道徳→人間が無意識のうちにこの世に存在すると認識している、いわゆる『正邪』、『善悪』の規範の事で、各個人の価値観に依存するもの。人が守るべき個人的規範、若しくは人として生きて行く為の常識と言っても良いかと思います。道徳は違反をしても、罰則はありません。→これに対し、社会において人が守るべき規範の事を、『倫理』と言います。

 

 このように、両者は似ているようで、実は大きな違いがあります。最大のものは、罰則の有無です。なので、当たり前ですが、人は法に関してはそれを恐れ、極力法を犯さぬよう行動するようになります。慎重になるわけですね。これは至極当然の事と思います。でも、こうする事で社会は秩序が保たれ、安定した世の中が形成されるわけですね。では一方で道徳はどうなのでしょうか?私は残念ながら道徳に関しては悲観的です。あまり守られてはいないんじゃないかと思っています。そりゃそうですよね。だって破っても罰則がないんですからね。いわば破っても怖いもん無しです。でも、大抵の人はその心の中で、『自分は道徳的な人でありたい』とか、『人としての道(道徳)に外れた生き方をしないように』とか思っているんじゃないでしょうか?実はそういう『生き方』が、素敵で美しいものであるという事は十分理解してはいるわけです、頭の中ではね…

 

 私は道徳というものは、行動を伴うもの実践を伴うものだと理解していますが、得てしてそういう時、いざ実践、行動という時に限って面倒くさい状況だったり、ややこしい状況だったりするわけです。すると今風の言い方で言うところの『ウザっ!』っていう気持ちになり、次に『どうせやんなくても、誰かに責められる訳でも無いし…』的な考えが浮かび、結果スルーという事になるケースもあるんじゃないでしょうか?でも、もしこれが法なら…?法ならそこにそれを見張る役割の人たちが居ます。身近なところなら、それはお巡りさん👮‍♀️であり、検事さんです。そして万一法を破ったならば、『待ってました!』とばかりにこの人たちがやって来て、この人たちのお世話になってしまうわけです。その時最も奪われるもの、それが個人の『自由』です。これが法を犯した時の罰というものだと思います。人はこれを失うのが怖いので、極力法を犯さないようにするのだと思います。つまり、ペナルティがあるわけですよね。こう考えると、まあ、ある意味で、『法というものによる恐怖支配』かも知れませんね…変な例えかも知れませんが…そう考えると、一般的に人というのは、何も始めから好き好んで遵法精神を発揮しているわけではなく、自分の自由というものを守る為に渋々法を遵守しているとも言えるのではないでしょうか?そうなると、さっきの道徳律の遵守の話とだいぶ事情が変わって来ますよね。道徳の場合は、多くの人が『そうありたい』、『そう生きたい』と望んでいる、理想としては抱いているのですが、実践、実行段階で頓挫したりするというもの。で、大抵の場合は、後になって、いわゆる『後悔の念』を抱いたりするものなんです。で、私も考えてみました。どうしてそうなるのかと?すると答えは至って簡単で、法の時のようにいわゆる『法の番人』的な存在が具体的にいないからです。さっきも述べたように、道徳は破っても罰せられません。そこが大きいのだと思います。でもね、これもし道徳に反したら罰せられるとしたらどうでしょう?多分みんな必死になって善を実践しようとするでしょうが、法と道徳という2つものから行動基準を定められて生きるとしたら、結構大変なんじゃないでしょうか?社会は間違い無く『善なる社会』、『良い社会』になると思いますが、その社会を構成する肝心要の人間は、ヘトヘトになってしまい、個々人はかえって『不幸せ』になってしまうようにも感じられます。私個人の意見ですけどね…

 

 さて、ちょっと話は変わりますが私コーネリアスの理解では、コーネリアス流神学によれば、私たち人間の体の中は神と悪魔の両方から支配されていると考えています。簡単に言えば悪魔(ルシファー)が我々の欲望部分を支配し、神が我々の善なる心、道徳的に生きる心を司っておられると思っています。なので、道徳が実践出来ない時、これは大抵は、悪魔支配下の『私の欲望』が邪魔をしているのではないでしょうか?さっきも述べましたが、何か善い事、道徳に叶う事をしようとする時に限って、先を急いでいる時だったり、出勤途中で、遅刻しそうな時だったりとかね…この場合やはり人は自分が可愛いからね、優先させちゃうんですよ、自分の都合をね。この『自分が可愛い』という部分がいわゆる悪魔の支配する欲望かも知れないね。この場合だと。そう、人間は根本的に『自分が可愛い』んだと思います。勿論私はこれを全否定する気はありません。だって自分を大切に、大事にする事は、神も望んでおられる事だから。ただ、皆が自分優先、自分優先となったらどうなるんでしょうね?間違い無くこの人の世は、対立構造化してしまうでしょうね。喧嘩の絶えない世の中に、戦争だらけの世の中になりそうです…なので、この道徳の実践時に必要な心構えというか、考え方は私コーネリアスは、ほんのちょっとした寛容さと、利他的精神というか、それじゃないかと思っています。ま、大袈裟に言えば、ほんのちょっとした『自己犠牲』の精神ね。簡単に言えば、使い古された言葉ですが、いわゆる『世の為、人の為』って言うアレです。それとこれもほんのちょっとだけでいいんですが、忍耐ね。これで良いのではと思っています。もし貴方が何らかの理由で、道徳的行為が実践出来ずに後になって後悔の念が出て来たとしたら、それは素直に受け入れて下さい。聞きれて下さい。何故なら、それこそが貴方の心の中に住む神からの貴重なメッセージだと思うからです。法には番人がいます。ですが、道徳には番人はいません。『神よ、何故道徳に番人を置かれないのですか?』との問いにおそらく神はこう答えられるのではないでしょうか?

 

神様談:『そうだね…君たち人間に自由意志を与えたのは、何を隠そうこの私、神だ。アダムとエバを創る時に。なので、君たちが私の元を去る事も既に想定済みだよ、残念だがね…仕方が無い。だがね、一方で私は確信している事がある。それはいつになるかは個人差があり分からないが、君たち人間は必ずまた再び私の元に戻って来るという事だ。何故なら君たちを創る時に、そういう秘策を施しておいたからね。君たちが私から離れている時は、君たちはあまり道徳的には生きられないだろう。なので、苦労も多いと思うよ。でも、言うじゃないか、『可愛い子には旅をさせろ』って。だから人間たちよ、沢山旅をして、沢山経験しなさい。そして失敗も沢山しなさい。そこからは何かしら得るものがある筈だから。そして道徳的とはどういう事かを身を持って学びなさい。道徳的に生きるという事は、頭で考えて理解するものではない。身に付けるものだ。でもね、戻って来て私と共にあれば、大丈夫。それが完璧に出来る様になるさ…うんうん、大丈夫、何故なら

君たちは、私の『子供たちだから』。安心しなさい…そもそも道徳的に生きるという事は、君たちが心の底から良心に目醒めるという事だ…分かるかい?それにそもそも不道徳だからと言って、いちいちペナルティなど与えていても何の役にも立たないよ…ペナルティ怖さに実践される道徳行為なんて、それを受ける方もあまり有難いもんじゃ無いだろうし…そう思わないかね?いずれにしても、私は君たちが悟り、私の元に戻って来るのを首を長くして待っているよ、辛抱強くね。丁度あのイエスの福音書に書いてある、『放蕩息子の親父』のようにね…』アーメン!

 

 最後に『法(律法)と道徳』について、現代の我々にも大変参考になるイエスキリストの例え話があります。それが、ルカによる福音書第10章25節〜37節にある、『善きサマリア人』の話です。で、この話について動画でとても分かり易く、コンパクトに纏められたものが、Monicaさんと言うカトリックの方からアップされていたので、動画のご紹介がてら、以下に添付します。此方も宜しかったらどうぞご覧下さい。いわゆるキリスト教的視座からの、法と道徳の違いが一目瞭然ですよ…