こんにちわ。皆さんお元気ですか?コーネリアスです。今回は、信仰心と忠誠心というものについて語ってみたいと思います。さて、先ずこの2つの言葉について一般的定義を述べますね。

●信仰心

①神や仏などを信じる心。

②人や物事を信用、信頼する心。

③証拠抜きで、何かに確信を持つ心。またそれらを信じる事を正当化する要因。(①〜③wikipediaより)

 

cf  『神を感じるのは心であって、理性ではない。信仰とはこのようなものなのである。』 パスカル

 

 

●忠誠心

自らが所属する国、団体、若しくはそれらの権力者、又は思想に対し、尊敬の念を伴った献身と服従の態度を示す心。

 

福音書では、いつも直弟子たちを叱り飛ばしているイエス様ですが…

 

 

 ごくごく一般的にですが、上記のように定義されているようです。さて聖書を読むと、イエスキリストは12人の直弟子たちに多くの事を教えておられます。が同時に彼等の出来の悪さに呆れ果て、数多くのいわゆる『叱責の言葉』、お叱りの言葉もかけておいでです。その代表格が最年長者ペトロですかね。この点はちょっと可哀想な気もするんですが、でも確かにこの人、ちとお調子者のところがありますから仕方が無いか…ある意味で怒られ役にはピッタリかもしれません。そんなこんなで、兎にも角にも聖書を、特にイエスキリストの言動が書かれている福音書を読むと、殆どと言っていいくらいイエスキリストは人間を褒め称えてはいません。ダメ出しばかりです。でもね、これも仕方がありません。だってイエス様は人であり、神です。神目線から見れば我々は間違い無くダメなところだらけなんですからね…なんですが、これ多分唯一と言っていいと思いますが、唯一ここだけ、この箇所だけイエスキリストが心から人間に対し『感心』し、認め、褒めているところがあるんです。私の知る限り、恐らく此処だけだろうと思います、イエスキリストが人間を褒めている箇所は。それが、マタイによる福音書第8章5節〜13節。百人隊長の僕を癒す場面でのやりとりです。参考までにその箇所を以下に記します。

 

★マタイによる福音書第8章5節〜13節(新共同訳)   百人隊長の僕をいやす

 

 さて、イエスがカファルナウムに入られると、一人の百人隊長が近づいて来て懇願し、『主よ、わたしの僕が中風で家に寝込んで、ひどく苦しんでいます』と言った。そこでイエスは、『わたしが行って、いやしてあげよう』と言われた。すると、百人隊長は答えた。『主よ、わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ただ、ひと言おっしゃってください。そうすれば、わたしの僕はいやされます。わたしも権威の下にある者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また、部下に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします。』イエスはこれを聞いて感心し、従っていた人々に言われた。『はっきり言っておく。イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない。言っておくが、いつか、東や西から大勢の人が来て、天の国でアブラハム、イサク、ヤコブと共に宴会の席に着く。だが、御国の子らは、外の暗闇に追い出される。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。』そして、百人隊長に言われた。『帰りなさい。あなたが信じたとおりになるように。』ちょうどそのとき、僕の病気はいやされた。

 

 先ず、この箇所を読んで最初に気付かされるのが、イエスキリストに対するこの百人隊長の真摯な態度です。イエスキリストに対し、『ねえ、イエスさん』とか、『ねえイエスさま〜』みたいな生温い態度ではありません。彼は『主よ…』と切り出しています。また、わざわざイエス様が『分かった。じゃ君の家に行こうか?』とおっしゃった時にも、彼は『とんでも御座いません!わたしはとても貴方様をお迎え出来るような立場の者では御座いません』と言って丁重にお断りしています。此処から何が言えるのか?彼、百人隊長は目の前のイエスキリストを完全に『神』と信じているという事です。そしてその態度は徹底しており、声を掛ける時も『主よ』と言い、君の家へ行こうかと言われた時にも、神にそこまで気を使わせるなどもっての外とばかりに、丁重に断り、ただ今此処で病気が治る様念じて下さいませと言った態度でイエス様に接しています。実に短いやり取りですが、これだけの事が読み取れます。私はイエスキリストはこの隊長の事をこう直感されたと思います…『この人はローマ帝国の軍人で、ローマ人のようだが、間違い無く神を信じる人。信仰を持っている人だ。この私に対する態度にもそれが滲み溢れている。それに願いというのは、何と自分の僕の病気の回復…僕と言えば奴隷じゃないか。今時奴隷なんて吐いて捨てるほどいる。彼等はいわば『使い捨て』。病気で死んだらまた何処かから引っ張ってくればいい。百人隊長ならそれ位の権限、力は十分にある筈だ。それなのにこの人は、その奴隷、僕の病を案じてわざわざこの私の元までやって来ている。何と心優しい主人である事か…主人がこんな愛に満ちた人なら、必ずや僕と主人の関係性も良い事だろう…彼等の間には間違い無く強固な信頼関係がある事だろう…いずれにしてもこの人は、人として立派な人だ!』…

百人隊長の真摯で謙虚な振る舞いに、感心するイエスキリスト

 

 そしてイエスキリストは、自分に付き従っている『人々』と表現されているので、おそらく12人の直弟子以外にも、母マリアやマグダラのマリア、その他大勢居たんじゃないかと思いますが、その彼等に言います。此処はきっとこんな内容です…『皆んな、このローマの隊長さんを見たかい…なんて真摯で謙虚な態度をする人なんだ。僕は感動したよ!君たちも見習いなさい!彼と僕は初対面。それにも拘らず、彼は完全に僕を神と信じて接してくれている。普通はこんな事あり得ない事だ。それも彼には悪いが、彼はローマ人、ある意味で異邦人で我々とは文化も習慣も違う異民族だ。それでも彼は立派にこの私と接している。この根底には彼の不動の信仰がある。彼の信仰心が彼をそうさせているのだ。何と立派な事か!そうだなあ…いつまでもイスラエルがどうこうとか、ローマがどうこうとか、ギリシャがどうの何て言ってるのも古い話かもしれないな…立派な信仰を持つ人にユダヤ人もローマ人もないよ!そもそもが人は皆天の父の被造物。そして父は等しく信仰心をお与えになっている筈だからね。なので、君たちもしっかりしなさい!これからはこの隊長さんみたいな、異邦人の立派な『神の子』が次々と現れて来ると思うよ。だからしっかり修行しなさい。じゃないと優秀な異邦人の信者さんたちに遅れを取り、神からの祝福も受けられなくなるかもしれないぞ!』…こんな感じで、後半はいわばイエスキリストの従者たちへの叱咤激励の言葉と思われます。

 

 確かにこの百人隊長の信仰は、私コーネリアスも立派なもの、一信者として見習うべきものと思います。ただ、同時に私はこうも思うのです…この人のこうした信仰心はどうやって育まれたのか?彼は確かに聖書を読み、学んでいたと思います。もしかしたら、何処かに家庭教師的な者を雇っているかもしれない。でも、それだけでしょうか?この時私は彼の職業がローマの軍人である事に着目します。それも、隊長職という事は中間管理職ですね。多くの部下を抱えてもいるわけです。また、同時に彼の上にもいわゆる将軍等々の上官がいるわけで、その最上位には、ローマ皇帝が居るわけです。当時史上最強とも謳われたローマ軍の一員であったという事は、彼等には大変厳しい軍規律が課せられていた筈で、同時にローマ帝国並びにローマ皇帝に対する絶対的忠誠心も必要条件であった筈です。私はこの忠誠心に注目しました。つまり個人的には神を信じ信仰心を持つ人であったと思いますが、職業人としては、皇帝や将軍に対する忠誠心も持ち合わせていた人の筈で、そう考えると日常的、常日頃から信仰心と忠誠心に囲まれた生活を送っていた筈だとなるわけです。冒頭に纏めました通り、実は信仰心と忠誠心は、その対象は大きく異なりますが、中味的には実に≒なものだと、私には思えます。この隊長さんはそんな環境に身を置き、日々必死になって頑張っていた人なんじゃないでしょうか?きっと本人も知らず知らずのうちに、そうした環境が彼をブラッシュアップしたんじゃないでしょうか?此処を読むとそんな風に私コーネリアスには感じられます。いずれにしても、厳しい環境というのは、コレは間違い無く人を成長させるものですね…幾つになっても逃げない様にしないと…これも神からの試練、いやいや有難い『ギフト(gift)』だと思って。アーメン!