こんにちわ、皆さんお変わりありませんか?コーネリアスです!今回は、日本のいわゆる保守的生き方の人々、『保守派』と言われる人たちの事を考えてみたいと思います。因みに皆さんよく聞きませんか?『保守主義』なんて言い回し。これね、今の私コーネリアスの理解では、あり得ないんです。というのも、『保守』ってイデオロギーではないからなんですよ。では何か?答えは、その『生き方』であり、『生活態度』の事なんです。この点を私コーネリアスに教えてくれたのが、かの小林秀雄氏なんです。彼は長い事『保守とは何か』を追求した文学者でした。その彼によると、保守とはイデオロギーでは無く、その生き様、生き方にある。つまり日常での、日頃の(生活)態度、習慣であると定義付けるんです。

 さて、そもそもですが、『保守』って何ですか?どう定義すればいいんですか?となりますよね。この時とても参考になるというか、大変分かり易く教えてくれている人がいます。それが西部邁氏です。彼はその著書の中で、いわゆる保守について以下のように定義しています…

保守派の論客として活躍した、故西部邁氏

 

 

★保守の特徴(3要素)

①人間の理性を疑う事。

②変化は受け入れる。但し急激な変化は嫌う。変化は時をかけ、ゆっくりと。

③この世の中で人には其々に『役割』があると考える(国家有機体説)。→反社会契約説

 

cf 社会契約説とは…人間はそもそも一人一人が皆、自由で平等な個々の存在である(初めから王や乞食は居ない)。同質の一人一人が存在しているのみ。これら一人一人の民が互いに同意(契約)を結び、いわゆる『法の支配』する『国家』を作り、彼等の自由、平等、生命、財産(自然権)をこの『国家』に守って貰いましょうとする思想、説。現在の民主主義にも繋がる、近代政治思想。17〜18世紀に主としてロック(英)、ホッブス(英)、ルソー(仏)等により提唱されたもの。

 

 勿論、西部邁氏が述べている上記3つだけを満たせば絶対に保守とも限りませんが、一応目安にはなると思います。私はこれに、『古き良き伝統を継承する者』も加えたいですね。それにしても、こうして見るとなるほどなぁと思えますね。流石、西部先生鋭い指摘だと納得します。先ず、①について。一般的に左派、現在ではリベラル派とも呼ばれる人たちは、間違い無く合理主義者が多いと思います。そしてその合理主義なるものは全て人間の理性の上に立脚している筈です。で、リベラル派の彼等の多くは、無神論者です。あまり神仏に頼らない傾向にあります。なので、基本無宗教ですね。でも、人間なら必ず『何か』を信じていないと生きては行けません。じゃ、彼等は何を信じているのか?何を心の拠り所としているのか?それが、『人間の理性』です。確かにこの人間の理性なるもののお陰で、我々人類の社会も歴史と共に大きく変化し、発展もして来ました。この点は間違いありません。私も素直に認めます。それは良いのですが、果たして今後もこの人間の理性なるものに全面的に頼って生きて行って我々は大丈夫なのでしょうか?ちょっとだけ考えてみましょう。我々は人間です。人間という事は、我々はミスも犯す存在だという事です。何のミスも犯さずに存在出来るのは、私の知るところ、神仏のみだと思います。という事は、我々の理性に100%頼り切って生きて行くのは、ある意味危険もありますよとも言えるわけです。そうした意味では、西部先生が指摘しておられるように、敢えてその人間の理性を疑ってみるという試みも大いに意味の有る重要な事ではないかと思います。こうした事は、昨今のコロナ禍の事、ウクライナ情勢何かを考える時にも役に立つと思います。

 更に②の件についても同感ですね。左寄りの方たちは、やたらと変化、変革、改革をしたがります。それもすぐやろう、今すぐにみたいに言って来ますが、果たして大丈夫なんでしょうか?日本の諺に、『モノには順序』というものがあります。つまりは、何かをやろうとすれば、それ相応の時が必要なわけです。そうしたものをいわば割愛する形で事を成そうとすれば、これは恐らく上手く行かないと、私には思えます。何も変化、変革を受け入れないわけでは無い。変化はするのだが、慎重に時間をかけて確実にやるという事です。

 そして③。これちょっと分かり難い表現かもしれませんが、多少①と関連すると思います。これは究極国の国体、国の在り方、お国柄の事と絡んで来ると思います。ところで、因みにですが、私は民主主義もまた、共産主義さえも人間の理性から産まれた政治シムテムだと思っています。そしてこれの全ての出発点となっている思想が、いわゆる社会契約説だと思います。ロックやルソーが考え出したアレですね。で、これの定義付けにある関連情報何かを読んでみると、一人一人の人間、個々人をどう定義しているかと言えば、『生まれながらにして、自由で平等な個人』として定義付けしてあるんです。つまり皆んな同じという思想です。でも、実際には、貴族の家系の人も居れば、農民の家系の人も居る。商売人の家系の者も居れば、鍛冶屋の子供も居るかもしれない。そうすると当然ですが、多少なりとも貧富に差は出て来る。少なくとも経済的にはね。ま、分かりますよ。此処で言いたいのは、あくまで『法的には』という概念なんだろうから…皆が法的には等しく権利を持った存在であると言いたいのでしょう。この辺、かの養老孟司先生が面白い事を言っておられました。氏によると、この地球上で人間だけが何でも『同じにしたがる』、『同質化、均一化したがる』のだそうです。他の動物たちは絶対にそれだけはやらないのだそうです。例えば、今此処に100人の人々が居たとします。我々人間なら、『100人かあ、沢山の人が居るなあ…』程度の話です。最初から同じ人間、いわば『仲間』だと勝手に思い込んでますからね。常識的には普通なら誰も危害を加えるような人も居ないだろうから…ところが、犬や猫は違うのだそうです、その反応が…彼等には其処に其々違う100種類の人間が存在して見えているのだそうです。だからとても緊張し、ストレスが溜まるのだとか。100種類の人間が居るのなら、もしかしたら、1人位自分に危害を加える者が居るかもしれないと考えるのだとか…この話はとても興味深かったです。人間の特質を鋭く突いた例え話です。そもそも矛盾した話だとも思うんですけどね。だって自由と平等って実は全く相反する思想の筈だから。なのに『自由で平等な個人』と言うのだから、それって一体どんな『個人』なんですか?と聞いてみたいです。おっと、こんな事を書くと、あたかも私コーネリアスが、反民主主義者みたいに聞こえるかもしれませんね。気を付けよう。そんなつもりは無いですからね。でもまあ、どうでもいいか。民主主義誕生以来、この地球上で真に正しい民主主義国家なんて一度も存在した事なんて無いわけだから…民主主義を声高に謳っているアメリカでさえです。こんな社会契約説と全く違う立場、思想であるのが、国家有機体説という考え方です。

 社会契約説では、先ず人間を自由且つ平等なる存在として横並びにしました。其処に個々人の職業や社会的地位、役割などは一切加味されません。というより、そんなのはどうでもいい事なんです。此処から出発しています。で、これに対し国家有機体説では、個々人の職業、社会的役割が逆に重要になります。一言で言うなら、国家有機体説は、国を人体に例えています。つまり、『その個人は、この社会の中で何をしてくれる人か』が問われるわけです。なので、此処で1番困る事が、社会にコミットしていない人、ホームレス、無職の人と言うのは、ちょっと都合が悪いですね。国家有機体説は、最初イギリスで生まれました。がしかし、この思想はイギリスに根付きませんでした。というのも、その頃イギリスでは立憲民主制が確立していたからです。民主主義が根付いていた為、ダメだったってわけですね。で、この思想は海を渡り、ヨーロッパ大陸に紹介されます。フランスでも残念ながらダメでしたが、当時のドイツで受け入れられました。当時のドイツは、ヨーロッパの中でもちょっとばかり遅れた国、後進国でした。未だ、封建制の残り香も強く残る状態の国。産業革命にも出遅れていました。ヨーロッパ各地で社会契約説思想に基づく革命や改革運動が激化する中、この、『国家を生命体、人体に例えた思想』は分かり易く、ドイツの知識人たちには歓迎されたようです。そして、この思想を基にドイツ帝国(第二帝国)を築き、憲法を制定したのが、かの有名なビスマルク首相でした。此処からドイツの近代化が急加速します。

一人一人の民には、其々役割がある。各人がそれを全うする事で、国家の発展が図れる。

(図は伊藤博文たちが日本バージョンとして考えたもの)

 

 後年、このドイツからこの思想を取り入れたのが、戦前の我が大日本帝国でした。中心人物は伊藤博文です。彼はこの思想が、古来よりの日本の伝統的政治思想、『シラス国』の思想に大変よく似ていた事に強く惹かれたそうです。で、この思想をドイツから持ち帰り、後にこの思想をベースに大日本帝国憲法を策定します。後年登場する、美濃部達吉博士による『天皇機関説』もベースはこの思想です。なので、この思想は我々の国日本にも大変大きな影響を与えた思想であったわけです。

 

 ところで、いわゆる『保守派』の著名人、言論人等々を見渡した時、私は、ふとある事に気付きました。それは、とてもクリスチャンが多いという事です。時系列にみると、内村鑑三、新渡戸稲造、山本七平、遠藤周作、渡部昇一、富岡幸一郎等々です。で、これは何でかなと考えた時に、さっきの西部先生の3要素が浮かびました。先ず、クリスチャンなら当然ですが聖書を読むわけですが、これを読み解き、理解する為には、必ず自分なりのいわゆる神学が必要となって来ます。この神学を極めて行く過程で必ず行わなければならないのが、『神目線』で物事を考える事です。つまり、俗に言う世の『常識』を疑い見直す作業です。実はこれが西部先生の①と見事に符合するんです。西部先生の言う『理性』とは、言い換えれば人間の『常識』と言ってもいい。それを日常の信仰の過程でクリスチャンは何気に実践しているので、意外とこう言うところに気付きを見出せるのでは無いかと思います。又、②についても聖書では、変化に柔軟であれと教えています。特にこの辺は、パウロがその書簡集で我々に教えています。なので、②についても案外簡単にクリア出来ていると思います。更に、③の国家有機体説ですが、そもそもこの思想の根底にはキリスト教思想、聖書思想があります。国家有機体説に於いては、先ず国というものが存在し、其処に民が居るというものなのですが、では、その国というのは一体どういうものなのか?国とは、神が人間に与え給いしものと規定されています。社会契約説では、先ず自由で平等な人間たちが存在し、最初国は無かった。このバラバラの個人個人が集まり、共に住む為の共同体を作り国が誕生するとなるわけです。無神論的社会契約説に対し、国家有機体説はとても有神論的、聖書的な世界観を持った思想と言えると思います。

 私コーネリアスは、先のアメリカ大統領ドナルド・トランプ氏と同じ、キリスト教長老派の教会員です。そう言えば、トランプ支持者の多くがアメリカの福音主義、長老派の教会員だと聞きました。そう、実は多くの特にプロテスタントと言うのは、私は『保守派』の人々が圧倒的に多いと思います。何故なら、聖書に書かれている内容そのものが既に保守的内容が極めて多いと確信しているからです。アーメン!