こんにちわ。皆さんお元気ですか?コーネリアスです。本日は、宗教というものについて、語ってみたいと思います。僕は、クリスチャン(プロテスタント)ですが、今日世界には多くの宗教というものが存在しています。さてでは、この宗教なるもの、一体どうして生まれて来たのでしょうか?

 

この世には数多の宗教が存在する…それは何故か?

 

 一般的に言われている事ですが、人類史上最初の宗教というのは、今のイランイラク地方で始まったゾロアスター教であると言われています。今から約4000年位前と言われていますから、旧約聖書よりも多少古い事となりますね。この『ゾロアスター』というのは、開祖の名前で、英語でゾロアスター。独語だとツァラトゥストラ、そうニーチェの著書、『ツァラトゥストラはかく語りき』のあの名前です。その後、バラモン教、仏教、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教と、今世界で知られる主だった宗教が生まれたわけです。そもそもですが、宗教というものを定義しようとする場合、細部にまで亘ってキチンと述べようとするなら、これはもう定義不能です。これは宗教学者たちがそう言っています。無理なのだと。でもここではそれじゃ困るので、敢えてとてもザックリと、ホント簡単明瞭に説明するなら、こう定義出来ると思います…

★宗教の定義(とてもザックリと)

『人間の力、自然の力を超越した絶対的存在を信じる事、信頼する事。そうした思想体系、観念体系の事。』

この『絶対的存在』なるものが、キリスト教だと神であり、仏教なら仏となるわけです。

 さてこのような形で、兎にも角にも人間は宗教というものをこさえたわけですが、じゃそもそもどうしてそれ(宗教)が必要だったのでしょうか?ねえ、そう思いませんか?別に無くとも今だって日常生活は可能です。多分何の支障も無いと思います。これは昔も多分そうだった筈です。でも、それでも敢えて人間はそれを作り上げ、神や仏を崇める行為を始めた…何故なのか?…これは、我々人間に『死』があるからです。我々人間というものは、有限な存在です。誰しもいつか必ず死にます。これはある種人間の運命的、宿命的、且つ必然的なものなので、仕方ありません。避けて通れないものなのです。私コーネリアスは、死を考えた時に2つの側面があると思います。自分の死と自分以外の他者の死です。先ず、自分の死に関してですが、これにはいわゆる恐怖が付き纏います。そもそもなんですが、我々は通常であれば死の事なんて考えて生きてはいませんよね。特別大きな持病なんかを抱えて居られる方とかは別として、特にそういう事も無い普通の人々は、あんまりそうした事は考えていないと思います。死に関してはその様に、普段考えない、よって縁が無いよって縁遠い存在である。そうなっている時、いきなり死について意識すると、先ず死んだらどうなるかなんて『分からない』。『分からない』から、人間は不安になります。そう、人はそれが何か分からない時に、先ず不安になるのだそうです。次に死んだら、当然この世とオサラバ。少なくとも、今のこの世の中の友人や家族と言った人々との別れが発生します。そして死んだ後どうなるかなんて誰も分からない…もしかしたら、天国じゃなく、地獄へ落ちるかもしれない…こう考え出すと、不安→恐怖へ変わって行くのだそうです、人はね。要するに不安な思いが対象化されると、恐怖になるのだとか、心理学的にはね。そう、だから死ぬって事は結局怖い事なんですよ自分自身にとってはね。で、自分以外の他者の死はどうなのと考えると、これは僕も数年前父を亡くして分かりましたけど、これは、『悲しみ』だと思います。特に、自分に近しい存在ほどそれは強いと思います。自分の親や家族、親友…そうした人を亡くすという事は、もうその人と会話が出来ない。それまで出来ていた普通の生活が共に出来ない。こういう事ですからね。ある種普通の日常を奪われるという事、それまでの互いの関係性が絶たれるという事で、これは、まさに『悲しみ』以外の何ものでもないと思います。なので、いわゆる死というものは、『恐怖』と『悲しみ』だと言えると思います…

 さて、ただそうなるとです、じゃ人生はどう考えれば良いのか?哲学者ヘーゲルじゃないですが、『我々人間は生まれた時から、真っ直ぐに死に向かって突き進んでいる。』とするなら、何か人生なんて絶望的と言うか、実に暗い、悲しいものですよね。『俺いつ死ぬのかな?今日かな、明日かな』、『死んだら天国行けるかな?地獄はイヤだなあ…』なんて事ばかり考えててもね…実は、こうした死の恐怖、悲しみを解消する為というか、こうした事のいわゆる緩衝材として生まれたのが、宗教、そして哲学だと言われています。

 実際、聖書を読んでみたら分かるのですが、結構沢山の頁が、死後の世界、神の国(天国)について書かれています。そもそも我々人間がこの世で生きるとは、神様的視点からはどういう事を意味するのか?死ぬという事は、確かに肉体の滅びを意味するが、魂は決して滅ぶ事は無い。それは真の本籍地である、神の国に帰るのだとかね。似たような事は、イスラム教や仏教でも語られています。コーランやお経でね。こうした事が語られるのは、おそらくは、死後へ希望を持たせるというか、そういう事だと思うのです。先ず、現人生をストーリー化して、一旦死というもので、魂と肉体による人間界での、いわゆる前半の『人生編』は終了します。でも、そこからは、魂のみによる永遠に続く後半の『神の国(仏教なら極楽浄土)編』が待ってますよ、って言った感じですかね。でも、これを信じるなら、どうでしょうね、少しは救われるというか、確かに死の緩衝材にはなっているようにも思えますが…少なくとも、何も無いよりはましじゃ無いかな。後はね、ホント心から信じるかどうかなんですよ。これは個々人の信仰心次第だと思います。僕の場合は、信じています。一応痩せても枯れてもプロテスタントだからね。

 さてそんな宗教というものですが、今後とも必要なのかと問われると、僕個人的には必要と考えますが、私以外の世間様が、社会がどう考えるかは、分かりません。個人的には要ると思うけどなあ。だって、お葬式どうするの?基本無宗教であれば、葬式も挙げられなくなるんですよ、理屈の上ではね。ただ、最近では何でも『自由葬』なる葬儀の形式も確立したとの事。牧師の説教も無く、坊さんの読経も無いようですが、そんな自由なやり方での新しい葬儀の形式もあるようなので、それはそれで、リスペクトしなきゃかな。メリット、デメリットは色々あるようですけどね…現在、世界的には宗教人口は減少傾向にあるように聞いています。日本もそうですが、特に欧米でもキリスト教離れが増加傾向にあるのだとか。特に減少著しいのがドイツだそうです。日曜礼拝者数が、全盛期の8割減というからちょっと深刻ですね。昔教会で知り合ったドイツ人の教会員さんが僕に嘆いていましたから…皮肉な事ですが、逆に国内のイスラム教徒人口は増えているのだそうです。偏に移民政策の影響ですね。じゃ教会に行かなくなった人たちはどうして居るのかと言うと、何もしていない。要するに無宗教者になっちゃったという事です。流石ドイツ、国民のニーチェ教への改宗が進んだという事でしょう。何と言っても、その教義の核の言葉は、『今日神は死んだ。』だからね。教祖ニーチェの死後長い時間をかけての確立だね。でも、どうかなあ…宗教はあった方が良いと思うけどなあ…聖書なり、お経から教わる、学べる倫理・道徳、沢山あるからね。何よりも、人間以外の絶対的存在を崇めるという事は、少なくともその人に謙遜の心、誠実な心を植え付けさせるからね。この心は人として大事だと思うのだけれど…

聖書もお経も我々にとても大切な事を教えてくれていると思うのですが…