皆さんこんにちわ。ご機嫌いかがですか?コーネリアスです。今回は上記テーマ、真のラストサムライと呼ばれるに値する人は誰か、という事を考えてみたいと思います。一般的にラストサムライというと、思い浮かぶのはやはり例のハリウッド映画でしょうね。トムクルーズと渡辺謙が共演した、あの例の映画です。あの映画で、渡辺謙演じる勝元というサムライのモデルが実は西郷隆盛だったと言われています。映画の中でも、勝元は、明治新政府による廃刀令に強く反発。廃刀令に反対する多くの武士たちを束ね、新政府に対し、反乱を起こします。これが丁度西郷さんたちが引き起こした、西南戦争(西南の役)です。なので、どうでしょうか?今世間一般では、やはりラストサムライと言えば、『それは、西郷隆盛でしょ…彼をモデルに映画も出来てるしね。』と言うのが圧倒的多数だと思います。確かに私コーネリアスも、西郷さんはサムライだった。立派な士魂を持った方だった。そして、実にサムライらしい最後だった。このように思っています。ですが、ホントに『彼』が『ラスト』だったのでしょうか?私は明治のある人物が、どうしても真の意味で『ラスト』じゃなかったかと思えてなりません。その人物こそが、旧帝国陸軍将軍、乃木希典です…

西南戦争敗戦を確信し、鹿児島城山で切腹を遂げた西郷隆盛

 

勝元(渡辺謙)のモデルは西郷隆盛と言われている。

 

私コーネリアスは、乃木将軍こそが真のラストサムライだと思います…

 

 既に多くの皆さんは、この方、ご周知の事と思います。日露戦争時、帝国陸軍大将として活躍された方です。旅順攻囲戦の際の、203高地の戦いは余りにも有名です。この勝利の後、奉天会戦にも勝利し、その後の海軍の日本海海戦勝利と続きました。いわば、日露戦争において、大日本帝国が最初に勝利した大きな戦いの現場最高司令官だった方です。この戦争の後、乃木将軍は明治天皇の命により学習院院長に就任し、そこで明治天皇の皇孫、後の昭和天皇の教育係を務められたのだそうです。明治天皇からは、相当な信頼があったんでしょうね。因みに、乃木将軍は、1849年(嘉永2年)生まれと言いますから、江戸時代生まれの人です。ご先祖さんは、長州藩士だったんだそうです。それと乃木将軍は上記の西郷さんとも多少縁があります。西南戦争勃発時、乃木将軍は官軍兵士としてこれに参戦しています。

 その後、明治天皇が御崩御され、1912年、9/13に大喪の礼が執り行われたのですが、この日の夜、乃木将軍は奥様の乃木静子さんと共に、自刃して亡くなられました。満62歳であったそうです。この乃木将軍ご夫婦のいわゆる自決も結構有名な話です。学校なんかでは、サラッと流す程度で、この自決についてはあまり語られませんが、僕はこの乃木将軍の自決はちょっと深いものがあると思っています。乃木将軍の自決は、これは明らかに『後追い自決』、『後追い切腹』です。でも、2人が置かれた関係というのは、当時の大日本帝国天皇と旧陸軍大将、この頃は学習院院長ですか。要するに上司と部下の関係性の筈です。なのに後追い切腹というのは正直聞いた事がありません。そもそも後追い自決、後追い切腹なるものは、戦国時代に多く見られたものでした。負け戦濃厚となった主君と部下の会話…『殿、もはやこれまで…この期に及んでは、どうか潔く腹を切ってくだされ!私も直ぐに殿の後を追いまする…』こんな感じのケースです。その後江戸時代初期頃も継続していたようで、この時は主君が病気等で他界した時、家老なんかが後追い自決していたようです。そう、そもそも後追い自決なるものはそう言うものなんです。つまり、『最も高い忠誠心の表現』と言えるでしょう。すると、乃木将軍と明治天皇の関係性は単なる『上司と部下』の関係だったのでしょうか?明治天皇がどのようにお考えだったかは、分かりませんが、少なくとも乃木将軍は陛下の事を、上司(天皇=君主)としてでなく、主君(殿様)とお考えだったのではと思うわけです。そう考えると、どうしてこのような自決をされたかも説明がつきます。そう、乃木将軍の最期の作法というものは、実に前時代的だったわけです。中世の武士が大正元年にタイムスリップして来たような話です。こうした事から私コーネリアスは、『真のラストサムライ』は乃木将軍ではないかと思う次第です。実際その後は、このような形で切腹した人はいませんからね。終戦時や三島由紀夫のような人はいましたが…例えば、終戦時に割腹自決を遂げた旧陸軍、阿南惟幾大臣のソレは、敗戦の責任を取る為のものでしたし、その後の三島由紀夫の割腹自決は、自分の呼び掛けに自衛隊が応じてくれなかった為の、いわゆる国家に対しての抗議の自決でした。なので、この点は色々あろうかとは思いますが、私コーネリアスは、サムライの作法とはちょっとだけ違うように感ずるものです。これに対し乃木将軍のそれは見事に武士の作法に叶っていると思えます。ただ、個人的にはもう少し長生きなさって、ご自分の人生を楽しんで頂きたかった…そう思います。因みに、これはかの有名な武士道のバイブル、『葉隠』にも書いてある事なのですが、江戸時代に入って暫くは、未だこのいわゆる『習慣』は続いており、主君が亡くなった後、その藩士たちが殿様の後を追う事が頻発していたようです。これに強く『待った!』をかけたのが、有名な水戸藩の徳川光圀、水戸黄門様であったのだそうです。で、結果的には後追い自決は、幕府からも禁止となりました。この時の幕府の見解は、『今後、家臣はその主君に忠誠を尽くすので無く、主君の『家』に忠誠を尽くせ。よって、主君の死によって、後追い自決などはしてはならない。』と変わったわけです。つまり忠誠心の対象が従来の人(主君)→家へ変わったという事ね。

三島の自決は、国に対する強い抗議の自決だったと思います…