こんにちわ。皆さんお変わりありませんか?コーネリアスです。今回は、鎌倉時代に御成敗式目という、いわゆる『武士の憲法』、『サムライ憲法』なるものを日本で初めて作った人、北条泰時という人の話をしたいと思います。

 今年のNHKの大河ドラマは、『鎌倉殿の13人』というもので、鎌倉幕府黎明期の話ですね。大泉洋さんが鎌倉幕府初代将軍、源頼朝公を、小栗旬さんが主人公の第二代執権、北条義時を演じています。で、今回僕が取り上げる北条泰時は、この北条義時の長子、長男です。後に父に次いで、鎌倉幕府第三代執権職に就きます。今回の大河では、坂口健太郎さんが演じる予定だそうですね。楽しみです。

御成敗式目の制定者、北条泰時

 

 さて、そもそも北条泰時とは、どのような人だったのでしょうか?ここを考える際に先ず、彼の周りの人々の事を見てみましょうか。どんな人たちが彼に影響を与えていたかです。先ずは、彼のお爺ちゃんこと、北条時政。この人は兎に角やり手。だって一代で源頼朝を担ぎ上げ、鎌倉政権を作り上げた人だから。また、同時に権力欲も深い人だったみたいです。そう、いわば『お山の大将』、『ガキ大将』的な存在だったようですね。次にお父さんの北条義時。この人は北条時政の次男坊でした。長男が戦で亡くなってからは、色んな形で父時政を補佐していました。二人三脚のような関係ね。父時政が表に出て来るタイプだったのに対し、息子の義時はその裏方さん的存在だったように思えます。しかしこの人は、実直且つ大変強かな人で、時流を読むのが大変優れていたようです。ある意味臨機応変でとても柔軟な思考を持った人であったと思われます。源頼朝からもかなり厚い信頼を得ていたようです。この辺は、今回の大河ドラマで、小栗旬さんが好演しているところですね。泰時は、こんなお爺ちゃん、お父さんに囲まれて育って行きました。

 で、そんな中で育った当の泰時はどんな人だったかというと、①とても真面目な人、故に他人からの信頼も厚い人、②理性的な人→『道理、道理』が口癖だった、③情に厚い人→結構涙もろい人だったみたいです。こんな泰時を源頼朝も寵愛し、当初の名は泰時では無く、『頼時』だったそうなんです。頼朝が自分の名から自ら一字授けたと言われています。よほど気に入っていたんでしょうね。泰時という名に変えたのは、頼朝没後らしいです。なんか非の打ち所がないようにも感じますが、当時の歴史書吾妻鏡その他を読んでも、そう書いてあるんですよね。幼少期からよほど良い教育をされてたんでしょうね、多分。どの書を読んでも、泰時を悪く書いているものはほぼ無いんです。強いて言うと、承久の変の事を書いている『承久記』だけは、泰時を否定的に描いています。仕方ないですね。これは、朝廷VS鎌倉幕府の戦いでしたから。この時の鎌倉幕府軍の総大将だったからね、泰時は。それに対し相手のトップは、後鳥羽上皇様だったわけですからね。

 こんな泰時ですが、やがて偉大な父義時が亡くなり、執権職の座が彼に巡って来ました。実はこの時も紆余曲折色々あったようなのですが、彼のこれまた偉大なる叔母さま、北条政子の後見もあり、なんとか第3代鎌倉幕府執権職に就任しました。彼の就任当初、各地方では、地頭たちの争い、御家人たちの争いが後を絶えませんでした。殆どが、土地の争い、利権の争いです。こうした事は当時明確な基準となるもの、ルールが存在していなかった事が原因でした。誤解の無いように言いますと、全く無かったわけじゃないんですけどね、それらしきものは、あったと言えばありました。それが律令制度というものです。でもね、これかなりゆる〜いルールで、抜け道がいっぱいあったんですよ。なので、実質的には有名無実なもの。何でそうなっていたかと言うと、決め手は罰則。ルール違反した時の罰則が徹底的に甘い、緩いので皆が平気で違反しまくりだったわけです。元々我が日本には聖徳太子の十七条憲法なるものがありましたが、平安時代に入り、社会が様変わりして来た為、次第にこのルールが現実にフィットしなくなった為、唐(中国)の法制度を参考に作成したのが、この律令制度でした。しかし、世は公家政権から武家政権に移行。政治の中心者が根本的に変わってしまったので、この律令制度も当然ですがフィットしなくなったわけです。そこで、泰時は何をしたか?彼は猛烈に法律を勉強し始めました。知人の京都の法律家に頼んで、色々な法律の資料などを送って貰い、早朝や夜、通常業務の合間なんかを利用してひたすら法律の勉強に励んだと言われています。偉いと思いませんか。一国の政治のリーダーが自ら猛勉強してるんですよ。争いの無い武家の世を創る為に。リーダー自ら汗をかいてね💦…どっかの大臣さんたちに聞かせたいよ。この泰時の努力の賜物が『貞永式目』いわゆる『御成敗式目』というものでした。貞永というのは、時の元号ですね。貞永元年に出来たので。全部で51か条から成る基本法典でした。勿論、一から十まで泰時たった一人で編纂したわけではありません。彼が中心人物でしたが、彼に協力する者たちが居りました。それが、鎌倉幕府評定衆の面々です。当時評定衆は有力御家人11名から構成され、これに泰時、そしてもう一人叔父に当たる北条時房を加え、13人の合議制で政治を行なっていました。この点は、お父さんのやり方をそのまま踏襲していたようですね。初の武家法典の完成に当たって、泰時は京都の六波羅探題に居る弟、北条重時に手紙を書いているのですが、この手紙の中で泰時は、御成敗式目の目的について以下のように語っています…

 

★…多くの裁判事件で同じような訴えでも、強い者が勝ち、弱い者が負ける不公平を無くし、また身分の高下にかかわらず、エコ贔屓無く公正な裁判をする基準として作ったのが、今回の式目である。京都辺りでは、『ものも知らぬ東国のあずまえびすどもが、何を言うか!』と笑う人があるかもしれないし、またその基準としては既に立派な律令があるではないかと反問されるかもしれない。しかし、田舎では律令の法に通じている者など、万人に一人も居ないのが実情である。こんな状態なのに律令の規定を適用して処罰したりするのは、まるで獣に罠を掛けるようなものだ。この『式目』は、漢字も知らぬこうした地方の田舎武士の為に作られた法律であり、従者は主人に忠を尽くし、子は親に孝を尽くすように、人の心の正直を尊び、曲がったのを捨てて、土民が安心して暮らせるように、というごく平凡な『道理』に基づいたものなのだ…

御成敗式目…後々の日本の法律にも多大な影響を与えた法典

 

 御成敗式目は、我が国初の武家法典なのですが、この法典はその後の室町幕府の足利直義(足利尊氏の弟)が作成した『建武式目』にも、またその後の江戸幕府が作成した『武家諸法度』にも大きな影響を与えていると言います。それくらい内容的にも優れた法律であったようです。また、この法律の日本法制史上に残る評価としては、平安期の律令という法律は、中国の法律を参考に作成したもの、また明治期の大日本帝国憲法及び現行の日本国憲法は、欧米の法律を参考に作成されたもので、どれもいわゆる『継受法』と言われるオリジナルを外国に持つ法であったわけですが、これに対し、御成敗式目は、当時の日本社会の慣習や倫理観に則って作成されたという事で、これはかの聖徳太子の十七条憲法に並ぶ日本オリジナル法という点が挙げられると言われています。

 そうした観点からも、御成敗式目という法典は、聖徳太子の十七条憲法と共に現存する我が国唯一のオリジナル法典であり、上記の泰時の手紙にもあるように、『民が安心して暮らせるように』との思想の元に作られた真の意味での『平和憲法』と言って良いのではないでしょうか?よく日本国憲法は平和憲法だ、などと学校ではよく教えています。確かにそれは正しいと僕も思います。ですが、これが出来るおよそ700年も前に既に我々の先人たちは、それを作っていたわけです。それも外国(GHQ)によって押し付けられたんじゃなくてね。我々の先人、ご先祖さんたちって、やっぱりなんか凄くないですか、皆さん…