こんにちわ。皆さんお変わりありませんか?コーネリアスです。本日は、タルムードの教えシリーズの第三弾、『幸福』と『不幸』についてお話したいと思います。先ず、タルムードにある以下の説話をご紹介したいと思います。

人にとって幸福とは…

 

★『ヘブライの王の助言』

ある村に毎日のように自分の不幸を嘆いている男がいました。彼の言い分はこうです…

『俺の家は狭いうえに、子供が四人もいて、おまけに女房が太っているので、自分は毎日立って寝なければならない。ひどい話だ。こんな狭い家に住んでいる俺は、絶対に不幸だ…』

この嘆きを聞いたヘブライの王は、彼にこう命令した。

『お前のその狭い家の中で、ニワトリを十羽飼いなさい。』

王の命令に嫌々従った男は、こう不満を申し立てた。

『女房と子供だけでも足の踏み場もないのに、ニワトリを十羽もそれで育てたら、私は糞にまみれて寝よと仰るのですか?王よ、私は前よりも不幸になりましたよ…』

これを聞いたヘブライの王は、彼に更にこう命じた。

『そうか、それではニワトリに加えて、羊も十匹家の中で飼いなさい。』

男は王の命令なので、今回も従ったが、国中の人間に向かって自分は王のおかげで、世界一不幸な目に遭っていると、言い回った。

しばらくして、やっと王は『ニワトリ十羽と羊十匹は、家の外で飼ってよい』と命令を変えてくれた。

すると次の日、男は王のもとに、感謝の品々を持って駆けつけて、こう言った…

『私は大変幸せな男です。今や、私の家には女房と子供四人、広々と暮らせるようになりました。ありがとうございます。』

 

この説話が教えている事、それはズバリ『今の普通の生活』を大切にしなさいという事です。今現在の普通の生活に満足出来ているかという事ですね。ここで男は不幸という言葉を連発していますが、ユダヤ社会では、いわゆる『不幸』と『不幸感』、『幸福』と『幸福感』は全く別物であると考えているのだそうです。この話の中で、ヘブライ王は、ある意味で実に見事に男の感情を誘導しているように見られます。男に今現在よりも不満が募るように仕向け、以前の生活がどれほど恵まれていたかを、男に気付かせるというか、身をもって実感させています。元の生活、彼にとっての『普通の生活』がどれほど快適だったかを悟らせています。

 考えてみれば、この男は不幸という言葉を連発しているのですが、私は彼の不幸のそもそもの真因は、『彼自身』にあると思います。『小さな家は、イヤだ!大きな家に住みたい…』という考えは、そもそもが、彼の理想、欲望です。つまり、自分の欲望が叶っていない為、不満が募っているだけの話なんです。もし、彼がそうした欲望を持たなかったら、最初からこんな不満は出て来なかったわけで、彼が不満を抱く事も無かったと言えます。なので、私にはハッキリ言えます。彼は決して不幸な男ではありません。いや寧ろ、愛する妻や子供に恵まれている彼は、幸せ者ではないでしょうか?妻がどれくらい太っているかは知りませんが…人の幸不幸というものを、いわゆる快適さや、金などに代表されるものを絡ませると、人はすぐにこの男のようになりがちに思います。つまり、自分の欲望が叶っていないから、自分は不幸だとする考え方ね。なんで、そもそもが幸不幸の問題では無く、人の欲望の話のように思えますね。じゃ、幸不幸とは…一体どんなもんなんでしょうか?何が『不幸』で、何が『幸福』なのでしょうか?

 実は、この問いに関しては古今東西様々な意見、主張が多々ある為、正直言って私にもよく分かりません。正解はこれだ、とする事が出来ないという事ですね。古代より、哲学、宗教を中心に色々論じられてきました。ただ、私コーネリアス的には、幸福、不幸について信じているというか、座右の銘にしているフレーズが2つあり、これを拠り所としています。それは、以下の言葉です…

 

①『人の幸不幸は、その人の心が決める』 W.  シェークスピア

 

②『人間にとって最も良いのは、飲み食いし、自分の労苦によって魂を満足させること。しかしそれも、わたしの見たところでは、神の手からいただくもの。』 旧約聖書コヘレトの言葉2章24節

 

 『わたしは知った。人間にとって最も幸福なのは、喜び楽しんで一生を送ることだ、と。人だれもが飲み食いし、その労苦によって満足するのは、神の賜物だ、と。』 旧約聖書コヘレトの言葉3章12、13節

 

上記②の言葉は、旧約聖書の中にある言葉です。個人的に気に入っているコヘレトの言葉からの引用です。ここに書かれている事を、冒頭の説話の教えと照らすと共通するのが、『ごく普通の生活』を大切にという事ではないでしょうか?もしかすると、この説話、コヘレト書からの教えかもしれないのでは、とさえ思ってしまいます…皆さんよく聞きませんか?色々なアンケートなんかで、『貴方は幸福ですか?』なんてのを。アレの結果を見ると、日本人の殆どが自分を幸福と思っていないのだとか…で、その理由を聞くと、『お金がないから』、『自分の思ったような仕事ができていないから』、『勉強の成績が上がらないから』…これ殆どが自分の理想通りにいっていないからという事。言い換えると良くも悪くも自分の欲望なわけで、これまさに冒頭の説話の『男』とおんなじじゃないでしょうか?つまり、本当は色々恵まれていて幸福であるにもかかわらず、それに気付いていないあの『男』です。

 そういえば、何年か前に日本にブータン国王夫妻が来日された事がありました。私コーネリアスは、この時の、このブータン国王の言葉にちょっとした感銘を受けた事を覚えています。この国王のメッセージは以下のようなものでした…

★ワンチュク国王(ブータン)のメッセージ

『私の国、ブータンは確かにこの日本国よりも経済的には貧しい国です。今でも国民の中には裸電球で暮らす家もありますから。でも、我々国民の9割の人々は自分たちを不幸だとは思っていません。幸福だと思っています。貧しくても、『心が豊かであれば』、幸福感のある社会の実現は可能だと思います。これは、私の父から教わった事なのですが、これからの時代は、GNP(gross national product) の時代ではなく、GNH(gross national happiness)の時代なのかもしれないと…』

 

 人は、目に見えるものだけを追って、目に見えるものだけを信じ、生活し、そうした中での世界観に囚われていたら、次第次第に『目に見えないもの』を見る能力が衰えてくるのかもしれないように思います。唯物論、物質主義に囲まれている我々もホントに要注意です…いずれにしても、私コーネリアスは、①健康で、②普通に生活出来る程度の金があって、③他者と比較する事無く、暮らして行ければそれで人は幸福に生きていると言って良いのではないかと思うのです。

 

 ところで、不謹慎は承知で言わせて貰いますが、今の世界の中で、この普通の生活がとてもじゃなく出来ていない人々がいますよね。悲しいけれど…それが、『ウクライナの普通の人々』かと思います。きっと彼等に聞いたら、この説話、胸にグッと来るんじゃないでしょうか…

早く普通の生活が出来るよう祈っています…