こんにちわ。今週に入り、此処福岡はだいぶ暖かくなって来ました。福岡各地で桜🌸は満開のようです。そろそろ愛する奥方と花見でもしようかな。コーネリアスです。

 最近、なんか色々考え事というか、色々思うところがあるんですけど、自分が子供の頃学校や大人たちから教わってきた事が、随分と違っていたり、そうじゃなかったみたいな事が起こったりと、なんかね、色々おかしいんですよ。例えば、日本の歴史教育ね。あれなんか、古代から近現代までちゃんと教える気があるのかという内容なんですよ。次世代の若者たちにね。ハッキリ言って言いたい事が多過ぎて書ききれない位です。まあ、敢えて一言で言うと、『自虐史観教科書』、若しくは『日本国貶め教科書』ね。これを同胞たちがやっているところが大問題ですよ。外国人じゃなくね…兎にも角にも戦後教育これがなんか胡散臭く感じます。国に対する愛国心なんかも教えないしね…私は以前イギリスの歴史教科書の日本語版を読みましたが、ちゃんと記述がありましたよ。自国を愛する事の大切さが。それにちゃんとアーサー王の事とか、いわゆるイギリス神話なるものの記述もされていました。日本はどうです?古事記なんか『なんか昔書かれたこんな本がありました』とサラッと流すだけ、そもそも古事記の記事の信憑性から疑問視する有り様。こんなんじゃ子供たちが自国を愛そうなんて気持ちにはなれませんわ。戦前やっていた事とまさに真逆、次世代の日本人はそんな事知らなくていいんだ!と言わんばかりです。自国を愛する暇があったら、他国を、恵まれていない貧しい国の人たちを助けろ!自分の事ばかり考えるなあ!です…コレ明らかに日本人のアイデンティティ潰しです。『お前は一体何者か?』と聞かれた時に、答えられない。いわば民族精神的弱者の育成教育プログラムですね、私に言わせたら。私は家庭で亡父から教わりましたが、戦前の日本の教育の方が、今より遥かに素晴らしいもののように確信しています、今でも…

知識教育は確かに大事。でも知恵は何時何処で育むのか?

 

 さて、愚痴ってばかりいてもしょうがないので本論に入ります。日本の今の教育というのは、いわゆる学校で行われています。まあ、この点は何も日本だけじゃない。どこの国も大抵はそうです。学校です。で、学校に上がる前でいえば、一般的には母親。絵本の読み聞かせから始まりますかね。その後に、幼稚園や保育園入園となるわけですね。で、一旦保育園、幼稚園に入るとその後は、小学校→中学校→高校→大学となるわけですね。という事は、親というのは殆ど自分の子供に『教育』はしてないわけです。いわゆる『先生』と呼ばれる教育のプロがやってくれているという状況なわけですね。かく言う私も色々教育は受けてきました。お陰様で大学まで出して貰いました。でも、最近よく思うのですよ。大学までは確かに出たが、子供の頃と比べて何が大きく変化、変わったんだろうかと…で、出た答えが『知識量』。そしてもう一つが『経験値』。つまり、今の自分というのは、間違いなく子供の頃の自分よりも知識と経験値が増えたと実感するわけです。ま、経験値もそうですね、見方変えれば知識の一種とも言えそうだから、そう考えると増えたのは知識のみと言ってもいいかもしれませんね。という事はです。少なくとも私が受けてきた教育での主たる成果は、いわゆる『知識の増大』というわけですね。確かにやってきたからな、『詰め込み教育』。僕の世代の人はね。これは何も日本だけじゃないと思います。アメリカもフランスも何処でも普通の学校で教える事はいわゆる、知識量の増大という事だろうと思います。つまり現代の学校と呼ばれているところで重視されている事、それは知識教育であろうと思います。

 で、これと全く違った観点から子供たちを教育している、あるコミュニティがあります。それが、ユダヤ人社会です。ここで彼等が重視するものはいわゆる知識ではなく、『知恵』なのです。

★知恵→道理を判断して、処理してゆく心の働き。筋道を立て、計画し、正しく処理して行く能力。

ユダヤ人家庭ではタルムードの読み聞かせで家庭教育をやっている

 

知識と知恵は根本的に違います。知恵というものは、最終的に行動が伴うものです。自分が知っている事、身に付けている事、能力を利用して何かを形作る事と言ってもいいでしょう。これに対し、知識というのは、いわば単なるデータ、情報量ですから、それだけでは別段何も生み出すものではないのです。コンピューターに例えるなら、知恵がアルゴリズムで、知識がデータみたいなもんなんじゃないでしょうか?ユダヤ人社会の子供たちも当然学校には通います。これは別段我々と何ら変わらない。でもね、家庭教育、これが決定的に他と違っているんです。ユダヤ社会では、子供が幼少の時からタルムードの説話、小話を親は子に読み聞かせするのだそうです。そして読み聞かせが終わると、親は必ず子供に色々と質問をするのだとか。『この主人公の行動をどう思う』とか『あなたならどうしたか』とかね。そしてそれに子供が答えたら、『何故』、『どうして』を連発。そうすると親子間で実に活発ないわゆる議論、ディベートが交わされるわけです。実はこれを幼少期から訓練的に繰り返していると、自然自然のうちに、思考する脳が鍛えられるのだとか。相手と議論するわけだから、自然と考えないといけない。それも自発的に。そうする事で、思考力や発想力が飛躍的に伸びるらしいのです。とても能動的ですよね。これに対し、知識を増やすというのはある意味受動的と言えるでしょう。特に学校での授業などはその典型です。考えてみれば、ユダヤ教のシナゴークでなされている事が、まさにコレです。私はクリスチャンなので、詳細は知りませんが、昔ある牧師先生から聞いた事があります。なんでもユダヤ教では、シナゴーク内で聖書(旧約)の解釈について、信者さんたちが色々議論して、それが延々と続いたりもするそうなのです。ま、いわゆる『朝まで生テレビ』状態ね。でもね、そういう事でも継続的にやっていると、ディベート力は確実にアップするのだとか。また、思考力も上がるので脳内の活性化にも繋がるようです。ユダヤ人の議論好きはここから来ているようです。また、ノーベル賞受賞者がダントツに多いのも、そうしたタルムードによる家庭教育でのいわゆる、訓練の賜物と言えるでしょう。単なる知識の詰め込みでなく、身に付けているその知識をどう活かすか?ここを重視して、その為の知恵を徹底的に鍛え上げる事を行なっているわけです。一般的にユダヤ人に優秀な人が多いのもここに由来しているようなのです。つまり知恵に関して非常に教育熱心ということね。

 私はこれを知りこう思いました。今からでも遅くはないので、日本の学校でもそうした授業を積極的にトライしてはどうかと。新しいカリキュラムとしてね。また、息子にもこの話をして、将来産まれてくるであろう孫には、幼少からそうした教育を家庭でもやった方が良いと伝えたところでした。勿論、自分はちゃんと我が息子にそこまでしてやれなかったので、それを詫びての話になりましたが…知識というものは、ハッキリ言って人生何時でも吸収出来ますが、知恵は出来るだけ若いうちに数多く身に付けさせた方が断然良いのだとか。ほら、『鉄は熱いうちに打て』と言いますからね。人生のアルゴリズムは、多種多様に沢山持ち合わせていた方が、おそらくは豊かに生きる事が出来るであろうから。なので、言いたいのは、若いうちは知恵を磨こう。鍛えようという事です。そういえば、ユダヤの格言にこういうのがあります。

★頭の中で考えた事(知恵)は、誰にも奪われる事は無い。