こんにちわ。皆さんお元気ですか?全国的に気温も上がり、すっかり春らしくなりましたね。コーネリアスです。今回は、我々人間の事について語ってみたいと思います。唐突ですが読者の皆さんは、我々人間が持つ最大の特徴は何だとお思いですか?まあ、探せば色々出て来るとは思いますが、私コーネリアスは、『概念』である、言い換えるなら、人間の『意識の世界』だと思います。

概念の世界に生きる人間

 

概念、それ何?僕等には分からないよ…

 

この概念の所有というのは、人間のみが持つものだと思います。なので、哲学や神学が存在するわけです。こうした学問、とても概念的ですもんね。きっと犬や猫なんかには絶対理解出来ないものかと思います。で、この概念というものの大きな特徴の一つが、『同じにしたがる』、『一つにしたがる』というものらしいです。この事は先日、養老孟司先生(元東大名誉教授)の動画を見ていて学ばせて貰いました。で、言われてみれば、『ははあ、確かそうだな』と腑に落ちたんですよ。概念に関しては、次のような話があります…りんご、みかん、バナナは果物ですね。また、サーモン、マグロ、鯖は魚です。当たり前ですね。じゃ、果物というものはどんな形をしているでしょうか?誰か見た人いますか?また、魚。これどんな姿形してるでしょう?どんな味がするのかな?誰か体験した人いますか?『馬鹿だなあ、それそうしたものの総称だよ。』そう、その通りなんです。総称です。でも、これがそうでしょう。養老先生が言ってる通りです。まさに『一つにして』います。同時に『同じ』にもしてますね。同じ種類という事で括っているわけですね。確かに、ある意味で、便利ではあります。そしてそれをやっているのは、我々人間の概念、我々の意識の世界です。果物、魚、更に言うなら人間、クルマ…こうした言葉、名称は厳密には実際には『存在』しません。実際に存在するのは、個々のそれこそ、リンゴやサーモン、山田太郎さん、トヨタのプリウスです。因みにこの話、これヨーロッパで古代ギリシャの時代から議論されてきた『普遍論争』の事なんです。いわゆる『実在論』(リアリズム)と『唯名論』(ノミナリズム)の話です。

プラトンとアリストテレス

 

★実在論→現実には存在しないが、その言葉の意味するところを人間は共通理解出来ている→果物

★唯名論→現実存在するものには、個々に名称がある→りんご、みかん

この普遍論争の起源は、古代ギリシアの2人の偉大な哲学者、プラトン(実在論者)とその弟子アリストテレス(唯名論者)にあったとされています。きっと上記のような話を先生と弟子の間でやってたんでしょうね…平和をと言えば、平和。暇と言えば暇だったのかもしれません。

 なので、皆さん今度試してみたら面白いかもしれませんよ。友達か家族が、『こないだ食べたんだけど、〇〇レストランのフルーツのデザートとても美味しかったんだ。』『フルーツのデザート?えっ果物?そんなもん存在しないはずだよ。本当は何?りんご?オレンジ?だから正確には、りんごのデザートとかオレンジのデザートって言うべきだよ。』…うーん、やはり止めた方がいいか。友達を失う事になるかもしれませんから。

 上記の事は、いわゆる人間の概念の世界の一つの例ですが、他にもたくさんの概念が我々の周りには存在しています。そして我々は、それらに日々接しながら生活しています。当然影響も受けながらね。多分数えたらあまりに多いので、数え切れないのではないでしょうか?小説、ドラマ、映画、音楽もしかしたら新聞の記事も、これら皆人間の頭の中で考えた事。養老先生流に言うと、『人の意識の世界』と言えます。そうすると、我々気を付けなくてはならないのは、これら全ていわゆる『真実』とは言い切れないものという事です。これらは、あくまで色んな人のある種『意見』であり、決して『真実』、『真理』ではないという事ね。ここ勘違いすると危ういというか、騙され易くなりますね。この辺のところ、見方を変えると、『洗脳』という言い方も出来ると思います。そう考えると、ベストセラー作家なんていう人は、きっと『大衆洗脳』の達人なのかもしれませんね。だってそうでしょう。『自分の意見』を通じて大衆(多くの人々)の脳、意識に働きかけ影響を与えられるんですから。変な政治家なんかよりよっぽど力ありますよ。そう思いませんか、皆さん…

 養老先生の概念の動画を見ていて、私コーネリアスがもう一つ『はっ!』と気付いた事が、つい此間ありました。それが冬季北京五輪の開会式セレモニーのテーマ、『one world、one family』の謳い文句です。考えてみればこれも見事ですね。『一つにして、同じに』して、纏めています。何か『八紘一宇』の精神というか、思い出しますよあの言葉、『世界は一家、人類は皆兄弟!』って言葉ね。これ、

戦前の大物右翼、そして戦後は日本船舶振興会の会長にまで昇り詰めた大物、笹川良一氏の言葉です。私が子供の頃TVCMで流れていました。これと似た思想は確かにキリスト教にもあります。でも、私に言わせると、中身、解釈のニュアンスが少し違うように思われます。これを話すとまたなが〜い話になっちゃうので、ここでは割愛しますね。で、何で今回の北京五輪でこの言葉が出てきたかと言うと、一つは中国🇨🇳がこれから世界の覇権国家を目指すんだ!という意気込み、思いを世界にアピールしたかったというのがあると思うんですが、もう一つは実は、この思想を最初(多分世界初)に言葉として著したのが、孔子だったからです。孔子は紀元前5世紀頃の人でしたから、時代的にはイエスキリストよりも古い。これは確かです。なので、確かに世界初。孔子の論語の中に、『四海は兄弟なり』(四海之内、皆兄弟也)という形で収められているのだそうです。この場合の四海=世界って事ね。

世界は一つ、我々は家族だ!パパは誰だろう…ママは?

 

 こうした事は今流行りのグローバリズム思想的でもあるように思います。世界を一つにしましょう。そして人類は皆等しく平等、みたいなね。ただここに何とも言えない違和感を私は感じるんですが、こんな風に感じるのは私コーネリアスだけでしょうか?かく言う私も若い頃、子供の頃なんかは、『平等。良いじゃないか。平等万歳!差別や格差は悪だ!』そう考えてというか、そう信じていました。でもね、良く考えてみると、人もそうですが、一人一人皆違うでしょ。DNA的に見てもこの世に同じ人なんて一人も存在しない。勿論犬や猫も。大自然を見渡すと、『同じもの』など確かに何処にも存在せず、皆微妙に違っている。でも上手く互いに助け合い、調和し合って其処に存在しています。そう考えるとね、良いんじゃないかと思うんですよ、それぞれ違っていても。要は互いに違っているという事を互いにしっかり認識、理解し合い、その上で互いに存在し合う。私はこれが真の多様性、ダイバーシティではないかと思うわけです。そしてこれこそが我々人間の、人類の真の有様というか、私流に言わせて貰えば、『神の御心』ではないかと思います。平等にする、同じにするという事は、ある種『型に嵌める』という事になり、これは自然の摂理には反するものです。何故なら我々人間も自然の一部の筈だから。神によって命与えられし者だからです。神は一人一人をわざと違って作られています。一人一人が活き活きと、それぞれ自分の人生を楽しめるようにです。そこにね、人が作った平等という概念、もっと言うとルールのようなものの中にいわば型に嵌めるような事をすると、息苦しさしか生まれないのではないでしょうか?平等を完全否定するのではありません。ただ、あまりに平等ばかりを唱え、それを我々の中心に置き過ぎるのは、如何なものかと言いたいだけです。『互いの違いを認め合い、受け入れ合い』調和して生きて行ける世の中、やはりこれが理想的世界のように私コーネリアスには思えますが、皆さんはどうお考えですか?