こんにちわ。皆さんお元気ですか?コーネリアスです。今回は、我々が日常何気に使っている『言葉』というものについてお話したいと思います。馬鹿みたいな当たり前の話ですが、我々の世界から突然言葉が無くなったら…間違い無く大パニックでしょうね。言葉とはそれくらい無くてはならないものです。かのヨハネは言葉について以下のように述べています…

ヨハネによる福音書第1章1節

イエスの12弟子 ヨハネ

 

初めに言(ことば)があった。言(ことば)は神と共にあった。言(ことば)は神であった。

この言(ことば)という部分、原語ギリシャ語では、『ロゴスlogos』という語なんですが、この語には、言葉という意味と、別に知性とか知恵と言った意味もあるのです。で、キリスト教神学上は、この言がイエスキリストを指すとなっています。なので、啓示宗教の世界では、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教では、言葉というのはとても大事なものなんです。これと真逆の存在が私は日本の神道だと思います。確かに祝詞は存在しますが、聖典というものがありませんからね。でも、あれはあれで良いと思います。ただ、それが故に厳密には宗教で無く、『日本の伝統』という扱いですけどね。ところで神からの教えが降る時、それは言葉、御言葉によります。こうしなさい、ああしなさいとかね。ちょっと話は変わりますが、ノンクリスチャンの方なら、『クリスチャンの連中は教会で何をブツブツと祈っているんだ?』と思われる方も居られると思います。よく分かります。昔、私もまだクリスチャンになる前はそう思ってましたから。それと日曜の朝から教会堂に集まって歌なんか歌って、全く能天気な連中だなぁとも思ってました。でもね、これもしっかりした神学的根拠があるんですよ。かの偉大なるパウロが以下のように語っています…

ローマの信徒への手紙第10章8節〜10節

ルカ(左)とパウロ(右)

 

…では、何と言われているのだろうか。『御言葉はあなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心にある。』これは、わたしたちが述べ伝えている信仰の言葉なのです。口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。

こうした事が、祈りを声に出して祈る事の根拠となっています。勿論これが全てとは思いませんが。だから、賛美歌も同様ですね。声に出して神様を褒め称える、感謝するそうすると、神様も嬉しいはずだし、従って此方も祝福されるはずなので、お互いにwin-winの関係で丸く収まるという話です。めでたしめでたしです。

 ところで、キリスト教の祈りの作法としては、こうした言葉による祈り以外にも『黙祷』という形式の祈り方もあります。私の教会なんかでもやってます。礼拝の始まる10分前なんかにね。心静かに整えるものとしてね。黙祷とは、基本『声を立てず、祈りを捧げる事。合掌したり、目を瞑ったり、軽く頭を下げたりする事。』です。これが仏教だったら、多分座禅に当たるんじゃないかと思います。で、個人的にはですけど、ボクは結構この黙祷が好きなんです。心を無にして何も考えず、ただ絶対神と向き合うという事が。こう考えるのですよ。神を前にしたらどうせ私の中の事は全てお見通しなんだから、今更ああだ、こうだ祈ったところで時間の無駄というか、たまにはそんな事割愛してもいいんじゃないかと。そんな事よりも私は今あなた(神)と共に居たい。単純に、純粋にただ神と共に居たいだけ。ただそれだけです…的なね。こういう時が私は時々あるんですよ。こんな時は何か言葉が邪魔になるというか、何となく鬱陶しく感じますね…こういうのをスピリチュアルな繋がりというのかどうかは、私は詳しく無いので分かりませんが…もしかしたら、日常的に人と接し、言葉に囲まれて生きているので、たまにはそれから距離を置きたいと私の心が欲しているのかもしれませんが…