こんにちわ、皆さんお変わり無いですか?コーネリアスです。さてこのシリーズ、前回はノアと大洪水の話で終わりましたね。善の系譜(神の系譜)が首の皮一枚で生き残ったという話でした。今回は、その続きをお話する前に、根本的な話、善と悪について考えてみたいと思います。読者の皆さんも『性善説』と『性悪説』というのをお聞きになった事があるかと思います。そう、人間の生来の本性の事ですね。コレ仏教とキリスト教とでは真逆なんですよ。キリスト教=性悪説、仏教=性善説を基本とっています。仏教の宗派の中に法相宗というのがあるのですが、この宗派の教えの中心的なものに『唯識』と言われるものがあります。で、ウント乱暴に簡単に言うと、この唯識の理論によれば、人間の心の奥底には『光の部屋』のようなものがあり、これがいわゆる『仏性』であると説きます。つまり『仏の心』なのだそうです。で、この光の部屋は人であれば、善人も悪人も関係無く全ての人が持ち合わせているのだそうです。なので、仏教=性善説となるわけです。他方、キリスト教=性悪説となるのはどうしてか?前回まで私のblogをお読み頂いた読者の方はもうお分かりかと思いますが、最初の人間(アダムとエバ)の段階で、悪魔が入り込んでしまったからです。神から離反して生きる事をしてしまった為です。なので、人間には生来こうした罪があると説きます。この罪の事をキリスト教では『原罪』と言います。なので、キリスト教=性悪説となるわけです。ところで、この性善説、性悪説について、私コーネリアスは次のような個人的見解を持っています。仏教の唯識の理論では、人間には誰しも仏性がある、光の部屋を持っていると説いてますが、私はこれは、光の部屋では無くて、いわゆる聖なる『空の部屋』(空っぽの部屋)じゃないかと思うんです。で、この聖なる空っぽの空間にある時は神が、またある時は悪魔が交互に入り込んで来ているように思えるんですよ。私も一応そこそこの人生を生きて来たつもりです。その中で、少なくとも私は完全悪な人間には会った事がありません。また、完全善なる人間にも出会っていません。と言う事は、人というのは半分くらい善で、残り半分くらいが悪なのではと思うのです。まさに神と悪魔が交互にこの聖なる『空の部屋』を占拠している、そんな風にも思えますし、何となくそう感じる事もあります。つまり、性善説でも性悪説でもなく、善と悪、神と悪魔がこの聖なる部屋を巡って今現在も闘い続けている状態が、我々人間なのではないかと勝手に思っているのです。なので、コレを敢えて言えば、『性闘説』とでもネーミングしたら良いのでしょうか?で、これが一生涯続くんだと思っています。そう考えると、私の目からは仏教という宗教はとてもお人好しというか、『人に優しい』宗教のように思えます。かたやキリスト教というのはある意味で『人に厳しい』宗教だと思います。そうですね。ある意味でキリスト教は『人を信じていません』。聖書で語っているのも信じているのは、神のみで、人をあまり良いものとは思っていない箇所が多いと思います。でもね、私はそれは仕方ないと思っています。何故かと言うと、あまり人間に過度に信頼したり、期待を寄せてみても、逆の側の事、過度に信頼されたり、過度に期待される側になれば、コレ物凄いプレッシャーじゃないですかね。人間には全てに限界がある。だから、こうした事全てが出来る筈はないんです。だから人を裏切ったりもする。時には嘘もつく。仕方ないんですよ、だって人間皆弱い存在、限界を持った存在なのですから。ここのところを、かのニーチェは『だから強くなれよ!弱いままで居てどうするんだ!超人になるんだ!』なんて言ってたんですが、ニーチェには悪いがそれはやはり無理です。で、そうした事、人間の弱さや限界なんかがぎっしり書いてあって、我々を戒めてくれている書、それが聖書であると私コーネリアスは信じています。それで良いんですよ多分。だってそのお陰で人は少なくとも神の御前では間違い無く『謙虚』になれる筈ですから…アーメン。

聖書にある人への厳しい御言葉=神の真の愛(アガペ)