皆さんお元気ですか?コーネリアスです。今回は、ちょっとばかり変わったテーマかもしれませんが、人間の人生の意味について考えてみたいと思います。

 

 唐突ですが、読者の皆さんは、『人生の意味』というものを考えてみたりされた事はありますか?よく聞きますよね、『自分探しの旅』に出るとか。この時の旅なるものが、なんでも『人生の意味探し』のようなものらしいです。かく言う私コーネリアスも、若い時分にこれと似たような経験はしました。ですが、結果的には何も得る事は出来ず、何も変わりませんでした。今思えば、単なる時間の浪費だった様に思います。ただ、そういう事を意識した自分が、その時其処に居たという事実が残っだけです。人はこれを『想い出』というのかもしれませんが。こういう事を『考える』のは、おそらく人間だけでしょうね。犬や猫にはそうした『意識』はまずないでしょうから。そう考えると、人生に何らかの意味を求めるという行為も我々人間の意識がそうさせているとも言えそうです。

 考えてみると、そもそもどうして人は『人生に意味』を求めるのでしょうか?この点は、おそらくですが、人が『幸福』、『幸せ』を求めるからのように思います。自分は幸せに生きて行きたい。その為には…という感じですか。今の自分が、決して不幸ではないにしろ、もっと幸せ、幸福になりたい、もっと満たされた人生を送りたい、その為にはどうすれば良いか?自分をどう変えれば良いか?もしくは自分は何を為すべきか?こんな風になって行くのではないでしょうか。私も経験ありますが、子供の頃父親とこんな会話をした事があります。同じ経験された方も多分多いと思います。『ねえ、お父さん、どうして勉強しないといけないの?』『それは、良い学校に入る為だよ。』『良い学校に入ってどうするの?』『良い学校に入れば、将来大人になった時に、良い会社に入れるからだよ。』『良い会社に入ったらどうなるの?』『良い会社に入れれば、沢山お金を稼ぐ事が出来るようになるんだ。沢山お金を稼いでそれなりにお金持ちになったら、何でも手に入るようになる。ある程度自分の思い通りになる。つまり人生楽が出来るようになるという事だよ。』こんな感じでした。このパターンで行くと、つまり勉強する事で最終的に行き着く先は、金だという事になります。そこそこの金持ちになる為に、あまり楽しくも無い勉強というものをやんなきゃならないというわけです。しかし、父はどうしてこんな事を子供の私に語ったのか?おそらくですが、父親として、息子に『幸福』になって欲しかったからだと思います。父にとっては、金持ちになる事=幸福であったのだと思います。そう考えるとある意味正しいかもしれません。

 この手の話となると、TVでもネット動画でも色々な意見があり、なんとも言えませんね。ただ最近私はこう思います。そもそも人生に意味など無いと。いわゆる『人生の意味』というものは、人間の意識が勝手に付けた後付けみたいなもの。我々は、流れ行く時の流れの中を素直に生きて行く事しかできないはず。そもそも我々には未来が、多少の予測は出来ても、何が起こるかなんて分からないのですから。敢えて人生の意味について言うなら、『貴方や私が今まで歩んで来た過去を振り返った時、そこに今までの人生がある』と言えるのではないでしょうか。そしてその時、我々がその人生をどう総括するか?どう考えたり、感じたりするか?これが人生の意味ではないでしょうか?つまり、我々が『今生きている事』そのものにすでに意味があるわけで、冒頭の『自分探しの旅』ではないですが、自分をある種特別な存在化して大上段に構える必要はないように思います。無理して旅などしなくても、考え事なら、自宅でも、通勤途中の電車の中でも出来ますから。なんか無理して人生というものに意味がなければいけないように、我々人間の意識が勝手に働いているように思えますね。そうではなくて、日々の日常を精一杯生きる。真摯に生きる。この日々の点が、線となった時に一本の人生が見えて来る。そんなもんじゃないでしょうか?

 因みに、キリスト教の中では人生について何と教えているかと言うと、これは、ウエストミンスター信仰問答なんかが分かり易くて良いと思います。そこで以下のように教えてあります…

Q我々人間の人生とは何か?

     ↓

A神を賛美し、神に感謝し、神と共にある事を喜ぶ事。

アーメン…