皆さんこんにちわ。お元気ですか?コーネリアスです。

今回は、戦前の日本に存在していた小学校の教育科目、『修身』というものについてテーマとしてみたいと思います。私がこの名前を初めて聞いたのは、子供の頃でした。私の父と母からです。二人共戦前の生まれ、昭和一桁の人でしたから、この教育を尋常小学校時代に受けたと言っていました。当時父は私に『これは、今で言えば道徳という科目になるな。』と語っていました…

 先日、お気に入りの養老孟司さんの動画を見ていた時、彼の口からこの『修身』の言葉を聞き、彼曰く、『今のこんな時代こそ、昔の修身のような教育が必要かも』と言った内容が語られていました。動画を見終わり興味が出たので、早速この修身なるものを調べたところ、色々な事がわかったので、今回皆さんと共有したいな、紹介してみたいなと思った次第です。

昔の授業風景

 

 まず、『修身』という名称ですが、これは、儒教の経書である四書五経の中の大学という書物の中にある言葉です。因みにその部分は、以下の通りです…

●大学経一章

自天子以至庶人、壹是皆以修身為本。

天子より以って庶民に至るまで、壱是に皆身を修むるを以って本と為す。

 

修身という言葉の意味は、『自分の身を正しく修めて、立派な行いをするよう努める事』であります。要は、人として正しくありましょう、という事だと思います。

 

明治23年、1890年に教育勅語が発布されましたが、修身はこの時からスタートします。明治期に日本は色々なシステム、制度を西洋から導入しましたが、教育に関しても積極的に色々なものを導入しました。基本的には、実学がメインで、医学、法学、経済学、物理学、兵学等々です。その際いわゆる今で言う道徳というものをどう扱うかがネックとなりました。西洋は基本キリスト教世界であり、ほぼ全ての国がこのキリスト教的道徳心で統一されていました。これらの多くは学校でなく、教会という場で普及されています。いわば、教会が第二の学校、キリスト教的道徳を教える学校のような存在なわけです。これは今でもそうでしょう。これに対し、基本日本は宗教的には仏教国なので、こうした西洋道徳はあまり馴染まないわけです。仕方ないですね。江戸時代は禁教だった宗教ですしね。その宗教の道徳を急に取りれるなんて無理です。また、社会的には、明治維新により急激に社会が激変し同時に西洋から個人主義、物質主義、自由主義と言った様々な思想が入って来た中で、少年少女等の非行、不良化も増え、国としてこうした事に対処せざるを得ない状況でもありました。

 いずれにしても、青少年の教育において道徳というものは必要である。じゃ、何をテキストとするか、手本とするか、ここが問題だったわけです。そこで、白羽の矢が立てられたのが、儒教でありました。そもそもこの儒教というものですが、これは古代中国で孔子によって打ち立てられたものですが、これ本来は宗教だったんです。道徳じゃないんですよ。教祖が孔子で、そこに集まった人たちが信者、聖典が論語、その集団が教団というわけです。なので、孔子の故郷では、今でも儒教式結婚式や儒教式葬儀などが存在しているそうです。これに対し我が日本では、詳細な経緯は分かりませんが、どうも宗教としてというより、道徳として扱われています。宗教色は見事に取り除かれてね。この辺の事は私も勉強不足でよくわかりません。いずれにしても、この国に古くから存在する道徳の一つそれが儒教なわけです。結局ここに行き着いたというか、やはり僕らにはこれが一番しっくり来るかな的になって行ったようにも思えます。私は儒教については前時代の江戸時代がそれが最も繁栄した時代ではないかと思っています。というのも、幕府内でも研究が盛んでしたし、朱子学、陽明学なる儒教から派生した学問も大変盛んに学ばれていたからです。明治政府が儒教を道徳教育のベースに決めたのもこうした過去の歴史的実績を考慮に入れての事ではないかと思うのです。また、儒教の内容的なものを見ても、当時の世界的思想、例えば、キリスト教的道徳と比較しても、そう見劣りするものでもないと判断したかもしれません。確かにある意味で普遍性はありますから。兎にも角にも、こうして儒教をベースとして『修身』なる道徳科目が成立したわけです。因みに言うと、私は先程、日本にキリスト教的道徳、聖書的道徳は馴染まないと述べましたが、修身の教科書の中にキリスト教的な部分が全部排除してあるわけではありません。若干ですがキリスト教的事例等も紹介されたりしています。クリミア戦争時のナイチンゲールの話や、アメリカ大統領リンカーンの奴隷解放についてなどが記述されています。ただ、内容のメイン思想が儒教思想だという話です…

 さて、この修身は、明治23年〜昭和20年までの間に全部で五回改定されています。時代の変化と共に色々見直しがあったようです。内容的なものはついては以下の通りです。

①自由、平等、博愛思想→リンカーン大統領の奴隷解放政策の紹介と意義

②博愛主義→クリミア戦争でのナイチンゲールの活動の紹介と意義

③正しい生活規律、習慣についてとその重要性

④勤勉、勤労の重要性

⑤『家』概念の記述→先祖を大切にし、祀る事。家名を重んずる事。親を中心に家族を大事にする事(親孝行、家族愛)。

⑥国に対する考え方→愛国、忠君、義勇。天皇中心の万世一系の国家概念

⑦他者に対する思想→清廉、寛容、報恩、謙遜、人を助ける、他人に迷惑をかけない

と、主だったところでは上記のような内容です。これ以外にも多数あるのですが、あまりに多過ぎるので今回は割愛します。で、ここで私が気付いたのが、思想的に儒教ベースの道徳であるとされていますが、私は修身の中には武士道精神、武士道思想も反映されていると思います。『義勇』という文言なんて象徴的です。これは武士道の中に最初に登場して来る言葉ですから。そして、修身に影響を与えたと思われる宗教を挙げてみると、

修身に影響を与えた宗教思想→儒教思想、キリスト教思想、神道的思想、(宗教では無いが)武士道精神

上記の4つがあるように思います。仏教的な思想は見出せませんでした。そうかもしれません。何故なら、仏教思想で説かれるのは、多くが死生観、人と自然(全宇宙)の繋がり、人とは何か、と言ったどちらかと言うと哲学的思想となる為、どうしても道徳ー人はどう生きるべきか、どうあるべきかーと言ったものとは馴染まない、そもそも棲み分けが違う、切り口が違うように思えるからです…

 さて、この修身という教育科目は戦後になりGHQにより、廃止扱いされてしまいますが、その最大の理由がいわゆる『軍国主義教育』の根幹をなすものと判断された為でした。確かにこの点は否めません。忠君愛国がその象徴ですが、戦時中我々のご先祖たちは、『天皇陛下バンザイ!』と叫び散って行かれた方々が多かったのも事実ですし、多くのアメリカ兵たちもそれを目撃したわけですからね。従って、GHQが『この道徳科目はよろしくないよ』と考えるのも仕方がないところではあります。がしかし、かと言ってこれを全廃止する権限が果たしてGHQにあったのでしょうか?軍国主義、軍国主義と言ってますが、それ以外の教え、例えば、『人を助ける』だとか、『他人に迷惑をかけない』なんて思想はとても普遍的で良い思想なのではないでしょうか?こうしたところは評価せずに、忠君愛国の思想のところばかりを強調してこの科目を廃止してしまう彼等のやり方は私は納得出来ません。そもそも、いくら戦勝国とはいえ、他人の国の国定教科書の在り方にまで口を挟み、恐れ多くも廃止するなんて事やっていいんですかね?ドイツで同じ事しましたか?イタリアは?やってないですよね。どうして日本だけが…などと思うわけです。根底には明らかに『人種差別』思想が存在しているように思えます。ま、ここら辺を語るとそれはもうまた大変話が長くなり、本筋から大いに外れてしまいますので、今回は止めておきます。言いたいのは、GHQによる『戦後の横暴』、『戦後の不当な扱い』、『日本に対する行き過ぎた政策』という事です。この点は作家の百田尚樹さんが詳細に調べておられますので、興味おありの読者の皆さんは彼の著書をご参考にされると良いと思います。かなり綿密に調査して書かれているので、信憑性は高いと思います。

 私は、現在の学校で教えている道徳の教科書を読んだわけではありませんので、現在の道徳教育については言及出来る立場にはありません。なので、現在の道徳教育については良いも悪いも述べる事はしません。ですが、少なくともこの修身については、戦前には大変良い道徳の科目があったのだなあと感じ入る次第です。確かに時代の違いがあり、今とは相入れない思想も一部には存在しますが、それを除けばとても普遍的で、いつの時代にも受け入れ可能な思想が数多くある実に立派な科目であったと思います。冒頭述べた養老孟司さんですが、あの方も確か80歳を回った方。戦前生まれであったはずなので、子供の頃はこの修身を学校で教えられた方だと思います。その彼が『今こそ修身が必要』と述べておられるというのは、彼の目には今の日本がどのように見えているのか?人と人の関係性を軽視し、全ての価値が金やモノばかりとなった現代の価値観を我々全員で再度考え直す必要があると言いたかったのではないでしょうか?