こんにちわ。皆さんご機嫌いかがですか?コーネリアスです。

今回は、人の『覚悟』という事を取り上げてみたいと思います。最近の日本社会では、あまり耳にしなくなったような気がします。なので、しょっちゅうとは言いませんが、稀に我々も使う言葉ではないでしょうか?そもそもこの『覚悟』という言葉の定義は、日本国語大辞典では下記のようになっています。

★覚悟

①迷いを捨て去り、真実の道理を悟る事(仏語)

②悟る事、気がつく事

③あらかじめ心構えする事、心の用意

④諦める事、観念する事

記憶する事、覚える事、修得する事

という風に定義されています。どうも言葉としてのルーツは仏教にあるようですね。この言葉、よく耳にするのは、時代劇なんかじゃないでしょうか?特に戦国時代のような自分の命を懸けて生きていた時代なんかはね。『殿、もはやこれまでじゃ!殿もお覚悟召されい!』なんてセリフよくありましたよ。覚悟という言葉は、別の表現で言うと、

覚悟=腹を括る、腹を決める、英断する

とも言えると思います。先だってたまたま元東大名誉教授の養老孟司さんの動画を見ていたら、この覚悟という事について、大変面白い自論を展開されていましたので、ご紹介したいと思います。

養老さんによると、最近は覚悟という言葉も死語に近くなったのではないかと言っています。人間生きていれば、色々と覚悟を決めなきゃいけない時があると思います。進学校を決める時。就活の時。何らかの理由で仕事を辞めなきゃならない時。結婚する時等々…覚悟の度合は大小あるでしょうが、こうした時に皆それなりに覚悟を持って臨むと思います。そうした中で、私は人生最大の覚悟が必要な時というのは、『死』に直面した時ではないかと思います。養老さんによると、昔の人は医療などは今のように進んでいなかったので、ある種素直に、自然に死に直面した時に覚悟が持てていたと言います。養老さんによると、『死』というものは自然なものなのだそうです。昔というのは、今のように科学技術等の恩恵をさほど受けていない代わりに、ごく普通に自然と触れ合ったり、自然に囲まれて生活していた為、昔の人はそのように『死』というものを『受け入れる』思想が持てたのではないかと言っています。言い方を変えれば、昔の人は『死』をある意味身近なものと感じていたのかもしれません。因みに養老さんは、人の生老病死というものは、とても自然なものでこれは極当たり前のことなのだ、従って、これを説いている仏教というものは極めて自然の摂理に叶った素晴らしい宗教である、と強調していました。この点、私コーネリアスも何ら異論はありません…

 他方で現代人はどうかというと、養老さんによると、現代人は死を容易に受け入れきれない人が増えたのではないかと言っています。何となく分かる気がします。現代人は無神論者が増えましたから…後で述べますが、死と宗教は密接な関係性があります。で、現代人は『覚悟』という言葉を持つ代わりに『危機管理』という言葉を持つ人が増えて来ているのではないかとも言っていました。養老さんはこれは止めた方がいいと警鐘を鳴らしています。何故なら、『管理出来ない状況』が『危機』だからです。

★『危機管理』=『管理出来ない状況を管理する』

という事になり、見事に矛盾しているからです。とはいえ、私も分からないではないです。だって誰だって死ぬのは怖い。いつかは死がやって来るんだろうけど、自分に限っては、少しでも遅い方が良い。医療も進歩したのだから、その恩恵を大いに受け、少しでも長生きしたい。こう考えるのは、人間であればごく自然な事かと思います。正直私コーネリアスもそう思います。ただ、一つハッキリしている事は、人間である以上絶対に『死』から逃れる事は出来ないという事です。人はいつか必ず死にます。これは我々の宿命で仕方ありません。

 そう言えば、私が以前レストランの店長をしていた時に、20歳のある学生バイトのA君がこんな事を言っていました。それは店が閉店してバイト連中と雑談していた時に、たまたま話題が死について登った際でした。A君『店長、オレは死ぬ事は絶対考えられない。死ぬ事なんて一切考えたくも無いし、オレは絶対死なない。』店長『でもいつかはその時がやって来るんだぞ。』A君『やめて、想像もしたく無い…オレは死を考えたく無い!』気持ちは分かります。先ず彼は未だ充分に若いし、人生まだまだこれからです。希望を持って生きて行きたいのに、人生の終わりの話をされてもなぁ…という感じであったかもしれません。でも、この時私コーネリアスは、ある意味『ホッとした』というかA君の素直な意見に『お前の気持ち、痛い程分かるよ…(でも現実にはね…)』と思ったのでした。

 さて、先程仏教の話が出ましたが、宗教と言うものについて、作家の佐藤優さんが以前こんな事を言っていました…

●『どこかの哲学者が言っていましたが、宗教というものは人が作ったものです。神や仏が作ったものでも無く、作ってくれと人に頼んだものでも無い。釈迦やイエスやアラーを信じる人たちが共同体を形成して、作り信じていったものです。そして、どの宗教もそうだと思いますが、人が何故宗教というものを作ったかというと、その最大の理由は、死に対する恐怖があったからだと思います。』

佐藤優さんによると、宗教が出来た最大の理由が『死に対する恐怖』からだそうです。こう言われると個人的には、よく分かります。どの宗教もいわゆる死後の世界観を持っていますから…仏教であれば、極楽浄土、ユダヤ・キリスト教、またイスラームなら天国(神の国)と言ったものです。これは、おそらくなのですが、死の恐怖の緩衝材なのではないかと思います。という事で、これらの宗教であれば、ごく普通の信者なら死後は安泰(?)なわけです。一応はね。

 さて、話を『覚悟』に戻しましょう。冒頭でも言いましたが、そもそもこの覚悟という言葉は仏教用語でした。でもね、私コーネリアスは、この覚悟という概念に近い考えを実は聖書(新約)に見出しました。

◆ヨハネによる福音書16章33節(主イエスの御言葉)

『これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。』

主イエスは我々に、苦難(死、試練)に直面したら、決して其処から逃げ出したりせず、勇気を出せと言っておられます。この勇気を出す時に、勇気を振り絞る時に、自然自然に我々は心の中に『覚悟』を抱くのではないでしょうか?如何でしょうか?『覚悟』という仏教用語をキリスト教的視点から説明してみたつもりですが…