こんにちわ!コーネリアスです。皆さんご機嫌いかがですか?

今回は、第90代天皇、亀山天皇をテーマとさせて頂きたいと思います。この天皇陛下の時代は鎌倉時代。あのモンゴル帝国による『元寇』の時の帝です。記録によると当時18歳でした。北条時宗と同期という事になります。という事は、この国の国運に関わったのは二人の十代の若者だったわけです。

亀山天皇

クビライ

 『元寇』というと、いわゆる戦争でしたから、とかく鎌倉武士や当時の政治上のリーダー、北条時宗がクローズアップされがちですが、私は、この時代の天皇陛下はどんな方で、この未曾有の国難に際し、どの様に対応されたのかに関心が湧き、調べてみました。そうしたところ、当時、皇帝クビライが送って来た国書に対しての亀山天皇の返書に行き着いたのですが、これが大変素晴らしいものでありました。私は、これを読んで、『亀山天皇は筆で皇帝クビライと戦われた』と敬服致した次第です。この国書が送られて来たのは元寇前で、内容は事実上の『降伏勧告』の書であり、国家間の外交文書としては、大変無礼なものでした。当時クビライ率いる元帝国は、南宋と交戦中であったのですが、いささか苦戦していたようです。しかしクビライとしては、なんとしてでもこの南宋が欲しかった、そこでクビライが目を付けたのが日本だったのです。日本には、強力な武装集団、武士団がいる。更にその水軍力(海軍力)は、おそらくは東アジア最強。よってここ日本を征服し、その強力な武士団を自分の配下に組み入れ、日本から南宋を攻め落とすという構図を描いていたようです。加えて、クビライは当時マルコポーロの『東方見聞録』を読み、その記事からも日本に強い関心を抱いたとの記録もあります。仕方ないですね…何と言っても『黄金の国Zipangu』として紹介されてますので…当時の世界大帝国のトップがこれを見逃すわけがありません。こうした背景のもと国書は送られてきました。以下、皇帝クビライから、我が国に送られた国書と、それに対する亀山天皇の返書案を記します…

 

★大蒙古国皇帝奉書(現代語訳)

私皇帝クビライが考えるに、昔から(日本のような)小国の君主というのは、隣国との善隣友好関係に努めるものである。我が祖先は、天命を受け世界を支配するに至った。遠方の国々で我らが威を恐れ、徳を慕って来朝する者は数えきれぬ…

 私の即位して間がない頃、高麗の罪なき民が長い戦争に疲れているのを見て、(私皇帝クビライは)高麗から兵を引き、民に領土を返し、老人や子供を釈放した。高麗の君臣は感激して来朝し、私クビライと高麗王とは君臣関係といえども、父子の如き関係となった。日本の君主もこれを知るであろう。高麗は私クビライの東の従属国となった。(聞くところによると)日本は高麗と親しく、建国以来、時には歴代中国王朝とも通交しているが、私クビライの即位以後には、一人の使者も送って来ない。おそらくは事情をよく分かっていないのであろう。故に今回我が方より使者を派遣し、国書をもって私クビライの考えを伝えようと思う次第である。願わくは、今後友好関係を結び、親しく接したい。

 聖人は、世界を家と見做す。通好しないのは一家の礼儀に反する。兵を用いる事を誰が望むであろうか。(日本国)王は、よくよく考えろ。それでは、よろしく。   至元三年八月

 

ほとんど脅迫状です…この国書は、初めて日本に送られて来たものですが、外交儀礼上、無礼極まりないですね。実に不愉快な文面です。前半を見ると、高麗を例に挙げて色々書き連ねていますが、『…長い戦争に疲れて…』とありますが、長い戦争を起こしているのはそもそも誰ですか、という事です。高麗人の死体の山を築いているのは一体何処のどなた様ですか、と言いたいです。そして、後半ではその武力使用をチラつかせています。この国書は最初、九州太宰府が受け取り、幕府経由、京の朝廷へ届けられました。というのも、当時他国との外交については幕府でなく朝廷が担当だったからです。推測ですが、これをお読みになった亀山天皇は怒り心頭だったのではないでしょうか。そうした中から、下記の内容の返書(案)が作成される事となりました。

 

★亀山天皇の返書(案)(現代語訳)

そもそも貴国(大蒙古国)は、かつて我が国と人の往来は無かった。(そうした事から)本朝(日本国)は貴国に対して何らの好悪の感情も抱いてはいない。ところが、そうした経緯を顧みずに、(貴国は)我が国に凶器を用いようとしている…(貴国は)どうして自らを『帝徳仁義』などと称しながら、かえって民衆を殺傷する源を開こうというのか…

 (日本国は)およそ天照大御神の天統輝かしてより、今日の日本皇帝(亀山天皇)の皇位継承に至るまで、聖明の及ばぬところなく、歴代天皇の鎮護は明らかで、四方の異民族が治り、乱れが無い。故に

国土を昔から神国と号するのである。知をもって競うのでなく、力をもって争うべきではない、唯一無二の存在である。(こうした我が国の事情を)よく理解した上で口を利きなさい。(鎌倉遺文)

 

私はこの文書を読んで、私は胸がスカッとしました!なんだかモヤモヤしていたものが吹っ飛んだ感じです。天皇陛下天晴れでございますと申し上げたいです。実は上記の文章、実際に書いたのは、帝ではなく、当時の朝廷の文書博士、菅原長成という人です。この方、そうあの菅原道真公の子孫にあたる方です。その文章を帝が推敲なされ、返書案として幕府へ提出されたもののようです。おそらくは、北条時宗公もこれに目を通されたと思います。その時どのような思いが駆け巡ったでしょうか?自分と同期の若き帝の『熱い思い』を感じたのではないでしょうか?

 実は、幕府の政治的思惑、駆け引き等もあり、この返書は実際にはクビライのもとへ送達されませんでした。ですが、北条時宗公にとっては、朝廷の思い、帝の思いを知る事ができ、且つまたそれが自分たちと同じ思いだという事が確認できたという視点からは意味ある事だったと思います。ここに至り我が国は『挙国一致』体制が整ったと言えるかと思います。そうした意味では、まさにこの書は亀山天皇の外敵に対する『御覚悟』が籠った魂の書であったと思います。

亀山天皇像(福岡市博多区)敵国降伏