こんにちわ、皆さんお元気ですか?コーネリアスです。

今回は、労働とボランティアについて書きたいと思います。もしかすると、皆さんの中にも何がしかのボランティアに従事なさっている方もいらっしゃるかもしれませんね。ボランティアと言えば、一般的には、『社会貢献』、『奉仕の精神』といった感じ、イメージがあります。見返りを求めずに、無償で何かをする事でしょうか?なので、通常非常に良い事、素晴らしい事と見られていますね。異論の無いところです。がしかし、偉大な経済学者で、かの名著『国富論』の著者、アダム・スミスは、この、ボランティア=社会貢献、という事に異議を唱えています。どういう事でしょうか?

 

※アダム・スミスの考える『労働(勤労)』と『ボランティア』

アダム・スミスは、18世紀のイギリスの経済学者、哲学者です。大学で経済学部だった方なら、おそらく彼の名著『国富論』を学ばれた方もおられるのではないでしょうか?かく言う私も実は、経済学部でした。ですが、もう数十年も昔のことなので、すっかり忘れてしまっていました。先日本棚の整理をしていたら、たまたま学生時代に講義の為に買った、アダム・スミスの『国富論』が出てきたので、何気に目を通していたら、ちょっと面白い箇所があったので、今回ご紹介したいと思いました…

 まず、人は何故働くのでしょうか?答えは簡単ですね。お金を稼ぐ為です。お金が無ければ、食べ物も買えませんし、家賃も払えません。生きていけませんね。言い換えれば、生きていく為にお金が必要だから、働くというわけです。一人一人が、お金が必要、だから働く。これは、更に言うなら、一人一人の『利己心(欲望)』に基づくものと言えます。

 例を挙げてみましょう。スミスモータースという自動車会社があります。スミスモータースは、日々一台でも多くの車を売る努力をしています。何故でしょう?それは、一円でも多くの収入を得たいからです。その為に、デザインの刷新を図ったり、エンジンの改良もしています。販売戦略も練っています。こうした企業努力は何故するのか?自社商品の品質を向上させ、一人でも多くのお客に車を買ってもらう為です。ラーメン屋が売上アップの為に、味の向上を図るのと同じ事です。こうして、俗に言う、良い車が世に出て、消費者がそれを買う。スミスモータースは儲かる。他方、消費者の方も良い車が手に入る。ウインウインの関係というわけです。スミスモータースは、得た収入で、従業員に給料を支払い、税金を払い、更により良い車を作るために、開発費に回したりしてするわけです。もっと稼ぐ為にですね。こんな風にお金というものは、我々が働く事によってグルグル世の中を回っているわけです。こうした経済社会が資本主義経済社会です。

 一方、ボランティアはどうか?ボランティアで働く事は、労働とは言いませんね。これは、奉仕と言います。何故か?労働報酬、お給料が発生しないからです。奉仕には対象があります。よく聞くのが、災害時のボランティアなどですね。確かに大変大きな社会貢献だと思います。尊い事です。神の御旨に叶っています。被災して困っている人々に無償で奉仕するというものです。しかし、このボランティアが無条件に社会全体に広がったらどうなるでしょうか?例えば、先程のスミスモータースが、『開発費が足りない』、『従業員がもっと給料を上げろ!というが、財源がない』従って会社経営が苦しい、なので助けて…お金ください。というので、例えばボランティアの一環として、慈悲の心からお金を払ったらどうなるでしょう?更にそれを与え続けたとしたら…おそらく、スミスモータースは、企業努力を怠る様になり、良い車はもう世に出なくなるでしょう。そうすると、お客もここから車を買わなくなり、売上が下がり、いずれ倒産するでしょう。多くの従業員は職を無くし、路頭に迷うわけです。また、消費者も良い車が購入できなくなり、間接的に被害を受けるわけです。このように、資本主義経済においては、一人一人は、『利己心』(欲望)からお金を稼ぐのですが、これをマクロ的に見た時、社会全体から俯瞰すると、一人一人のそうした小さな経済活動が、お金を、あたかも血液の循環の如く回していることとなり、結果的に、経済社会としての安定を築き上げているのです。まさに、ちりも積もれば山となるです。そして、ここには一人一人の労働というものが存在しています。

 考えてみれば、ボランティアというのは、社会全体の中でも、ある種限られた特殊な状況下で発生するものとも言えるでしょう。先程の『災害ボランティア』もですが、他には『五輪のボランティア』、『W杯のボランティア』など、もしかすると、一生に一度のイベントみたいな事ですね。他にもボランティアは多々ありますが、社会全体の中の一部の活動とも言えると思います。その限られた中では、確かに『社会貢献』は出来ています。では、それ以外はどうなのか?ボランティアの対象以外の社会、言ってみれば、通常の社会とでも言いましょうか、ここで大きく社会貢献しているのは何か、と考えた時に、アダム・スミスは、資本主義経済の下であれば、『それは、労働だ』と言っているのです。こういう事だと思います。

労働→利己心(欲望)が原動力→金を回す力がある

ボランティア→利他心が原動力→金を回す力はない

経済学者である、アダム・スミスの目から見たら、『社会貢献』というフレーズでこの両者を比較するなら、答えは、『労働』だ、となるわけです。つまり、経済的見地からは、労働=社会貢献となるのです。それにしても、なんか皮肉な事ですね。経済的には、人間の利己心・欲望という、ある種醜いものが、利他心ー他者への無償の奉仕、ある意味美しいものを凌駕する形となるのは…

 アダム・スミスは以下のように語っています…

『我々が自分たちの食事を取るのは、肉屋や酒屋やパン屋の『慈愛の心』のおかげではなくて、彼等自身の利害に対する彼等自身の『関心』のおかげである。我々が呼びかけるのは、彼等の『慈愛的な感情』に対してではなく、彼等の『自己愛の心』に対してであり、我々が彼等に語るのは、我々自身の必要についてでは無く、彼等の利益についてである。同胞市民の慈愛の心に主として頼ろうとするのは、乞食をおいて他にはいない。社会の利益を増進しようと思い込んでいる場合よりも、自分自身の利益を追求する方が、はるかに有効に社会の利益を増進することがしばしばある。社会のためにやるのだと称して商売をしている輩が、社会の福祉を真に増進したというような話は、いまだかつて聞いたことがない。

 

 例えば、こんな風景を想像してみてはどうでしょう。新卒者採用の面接会場での様子…

面接官 『それでは、何でも結構です。自己PRをどうぞ。』

 

就活者 『はい。学生時代は、学業以外にボランティア活動として、東日本大震災での復興の為、瓦礫撤去作業などにかかわり、被災した町のために少しでもお役に立とうと奉仕してきました。また、居酒屋でアルバイトとしても働き、その仕事を通じて微力ながら社会に貢献出来たかと思います。そうした二つの事の経験を通して、自分としては良い社会勉強も出来たと思っております。

 

面接官 『うむ。そうですか!』…

もし、この面接官がアダム・スミスだったら、おそらくこの学生さんは採用でしょうね。