こんにちわ。皆さんご機嫌いかがですか?コーネリアスです。

さて、最近巷では皇室絡みの報道、小室圭さんの件が色々と物議を醸し出しているようです。そもそもは、内親王様のご結婚という、おめでたい話だったはずなのに…私は、関係者ではないので、詳細は分かりませんが、一日本国民として、丸く治まってくれる事を祈るばかりです…祈…

 そんな中、先日歯の治療に近所の歯医者に行った時の事。待合室にあった一冊の本に目が止まり、読んでみたところ、大変面白く、読み進めていったところ、ある箇所を読み感動を覚え、心温められました…それが、『仁徳天皇と民の竈』の話でした。結構有名な話なので、ご存知の方も多いかとは思いますが、あらためてご紹介したいと思います。

 

 まず、この天皇は実在された方です。4世紀末〜5世紀前半、古墳時代の帝で、応神天皇の第4皇子です。第16代天皇です。この天皇について、最も有名なのが学校の教科書に必ず載っている、上記の古墳、日本最大の前方後円墳の帝だという事でしょう。大鷦鷯天皇(おほさざきのすめらみこと)…実は、これが、この天皇の正式なお名前で、『仁徳』という名は、そのあまりに素晴らしい治世を作られた事に対して、後世に『贈り名』として、付されたものです。当時の都は、難波高津宮。今で言えば、大阪でしょうか。皇后陛下は、葛城磐之媛で、この方、実は日本初の民間出身の皇后様でありました。それ以前、天皇の婚姻は、皇族間で行われていたようです。

★『民の竈』の話

 ある日、帝は宮殿から都を眺めておられました…その時、ある事に気付かれます。(おや、どこの家からも竈の炊煙が上がって無いが…)

帝:『これ、都の人家から竈の炊煙が上がっていないがどういう事だ?』

侍従:『はい…様々な理由から作物が不作となり、民は窮しております…日々の食べ物にも困っておる有り様でして…』

帝:『何とした事だ!大変じゃないか!…うむ、よしわかった。それでは、向こう3年間、課税、課役は無しとしよう。この事、急ぎ我が民に伝えよ!…そういう事なら、本日より私も質素倹約に努めようぞ…』こうして、帝は、それまでお召しになっていた絢爛豪華な御召し物から、質素なものへお着替えになられたそうです。また、生活全般も慎ましやかなものへと変えられました…こうして、3年が経過しました。帝は、皇后様や侍従と共に都を眺めておられました。帝の無税政策が功を奏し、多くの人家からは炊煙が立ち上っておりました。これを見て、帝は喜んでおられました。

侍従:『陛下、ご覧ください。陛下のご政策のお陰で、民は救われました。もう大丈夫です。そろそろ税を納めさせましょう。』

帝:『いや待て。まだ炊煙が上っていない家もあるようじゃ。私は、全ての民を助けたい…もう少し、延長しよう。』

皇后:『御言葉ですが、陛下。宮殿は天井に穴が開いてしまっても、倹約の為にと工事もなさらず、衣服も新しい物を新調なさる事もない為にボロボロではないですか…そこまでご無理なさらなくても…』

すると、帝は、天を仰ぎこう申されました…

 

帝:『天(神)は、私に民を与えられた…私は、既に富んでいるよ、大丈夫だ。何故なら、この民は私の大御宝(おおみたから)だからだよ…政事の基本は民。民が富まねば、天子である私が富んだ事にはならない。』

 

こう仰せになり、帝の無税政策は継続される事となりました…

 こうして、10年程が経過し、再び帝が宮より都をご覧になると、全部の人家から竈の炊煙が上っておりました。民に力が戻った事を悟られた帝は、ようやく課税、課役に関し解禁の命を下されました。すると、どうした事か、堰を切ったように、民達が自主的に大挙して都へ馳せ参じ、帝の宮殿の大改修工事に着手。また、ある者は綺麗な御召し物を持参して帝にお納めし、またある者は、郷土の特産品などを持参、献上したのでした。民は皆、帝の御心の内を理解していたのでした…この時、民は喜んで課税、課役で帝に御奉仕したのでした。民にここまでさせたのは、偏に帝の『民への思いやり、愛』に対する『感謝』の気持ちからでした。

 この後、民達は仁徳天皇指揮の下、都を中心に大規模な灌漑工事を実施し、広大な田畑を得るに至りました。また、水害防止の為、茨田堤と呼ばれる堤防も作り、生活の安定を図りました。仁徳天皇陵が、あの様に広大なのは、この時の大規模公共工事の際に出た土の影響だそうです。こうして、仁徳天皇は、その御存命中に、主として民のために大変良い政治を行った天皇という事で、後に『聖帝』と呼ばれるようになったのだそうです。そして、この仁徳天皇の思想、『民=大御宝』の思想は、その後も天皇家の伝統として受け継がれる事となり、現在まで継承されているのだそうです。実は、近年においても、この伝統に近いものを、我々は知る事が出来ると思います。それが、先の大戦時の昭和天皇の防空壕生活のお話です…

★昭和天皇の防空壕生活

先の大戦中、天皇陛下のお住まいであった宮殿が、空襲により焼失。陛下はやむなく、皇居敷地内に作られた巨大な防空壕を仮住まいとなされました。その時陛下は、『そうか、焼けたか…でも、これで皆と同じになれた。』とおっしゃったそうです。終戦直後、侍従達から御所の新造について話が上がった時も、『住む家も無く、苦しんでいる国民も居るのだから…』と、お断りになり防空壕暮らしを継続されたそうです。公務の際は、宮殿をご使用されていたかと思われますが、私生活では、皇后陛下と共に防空壕暮らしであったようです。昭和36年になり、ようやく新たに『吹上御所』が完成し、そちらに移られましたが、昭和20年〜昭和35年まで、何と15年間も天皇皇后両陛下の防空壕生活は続いたのだそうです…

 私は、この昭和天皇のエピソードから、また、平成天皇、令和天皇の被災地ご訪問等からも、千数百年の時を超えて、仁徳天皇以来の伝統は現代まで受け継がれていると確信するものです。

 因みに、冒頭述べました、歯医者で読んだ本というのが、深谷隆司氏(自民党議員、経産大臣等歴任)著の『本当はすごい日本人』という本です。とても良い本だと思います。興味を持たれた方、ご一読をお勧めします。