皆さん、ご機嫌いかがですか?コーネリアスです。

今回は、室町時代の守護大名(近江国)で、足利幕府開設の功労者でもあった佐々木道誉という人を取り上げてみたいと思います。室町時代の様子を描いた有名な軍記物、太平記にも登場する人なのですが、一般的に知名度はあまり高くないと思います。ですが、よく調べてみると、とても興味深い人で、その生き様に僕は惹かれてしまいました。多才な人で、何をやらせても超一流。且つ、ハチャメチャ。だけども、何か憎めない人…そんなイメージを持った人です。例えて言うと、あの忠臣、楠木正成を少しヤンキーっぽくした様な人とでも言いましょうか…

NHK『太平記』より 演.陣内孝則

 

 鎌倉時代末期、佐々木道誉は、近江国(滋賀県)の佐々木一族の別家、京極氏に生まれました。元々の名前は、京極高氏といいます。後に母方の佐々木家の家督を相続した為、佐々木を名乗るようになります。で、この高氏という名ですが、これは当時の主君、鎌倉の執権北条高時から一字貰って付けたものと言われています。実は、後に室町幕府を作った足利尊氏の尊氏という名も、元は高氏で、これもやはり、主君であった北条高時から一字貰って付けたもので、この二人、ここら辺りから既に何か因縁めいたものを感じさせる人達です。二人名付け親が同じ、かつ同名だなんて…因みに余談ですが、尊氏の尊という字は、後に後醍醐帝から頂戴した字です…高氏→尊氏に改名したのです。

道誉と尊氏

本家の佐々木家は近江源氏の名家で、また、足利家は、八幡太郎義家の血を引く、これまた源氏の直系の名家中の名家です。さて、道誉は、大名として近江国を治める傍ら、幕府に於いては御相供衆として、執権高時に仕えていました。今で言うと総理補佐官に近い様な職かと思われます。また、朝廷からは、検非違使に任ぜられ、京都の警備を任せられていたようです。道誉という名ですが、これは、主君の北条高時が出家した時に、共に彼も出家し、その時貰った法名なのです…導誉とも言われています。時の権力者北条高時からは、高く評価されていた人のようです。どうやら、仕事は相当出来た人だったようですね。羨ましい限りです…

 この佐々木道誉という人は、単に武将として活躍したのみでなく、当時一流の政治家(策謀家)であり、また、一流の文化人でもありました。そして、そんなマルチな才能を持つ超一流の彼の行動哲学に『婆娑羅バサラ』な生き方がありました。更には、足利尊氏とは、幕府を開く前からの付き合いで、この時には友人として親交を深め、後に室町幕府樹立後、尊氏が初代将軍となってからは、評定衆、政所執事として政治に参画。徹底して忠義を果たす、いわゆる忠臣となっていきます。一見やる事がハチャメチャに見え、何を考えているか掴み所のない様な人なのですが、この点だけは終始一貫した人物なんです。つまり、尊氏は絶対裏切らないゾ、です…ある意味で室町幕府はこの人の協力があったから作る事が出来たのではないか、と言いたくなる程の幕府黎明期の陰の功労者でもあります。では以下、道誉の色んな顔を、項目別に述べたいと思います…

武将として…

①青野原の戦い後の援軍の陣形→青野原の戦いは、南北朝動乱期の戦い。現在の岐阜県大垣市で起きた戦い。南朝北畠軍VS北朝土岐軍の戦いでしたが、北畠軍が勝利。大将の土岐頼遠は、一時行方不明になります。このままでは、北畠軍に京都まで攻め込まれると判断した室町幕府は、援軍隊を結成。佐々木道誉、高師泰を中心とした五万の軍勢を送り込みました。この時、道誉達は、近江・美濃の国境に流れる黒地川に布陣。決死の覚悟で、いわゆる背水の陣を構えたといわれています。そしてこれが、日本戦史上初のものであったといわれています。日本初の本当の背水の陣です。

②新田義貞への裏切り→後醍醐天皇の建武の親政が、上手く進まず、武家の間に不満が燻り、最終的に朝廷VS武家集団となり、これがやがて後醍醐帝VS足利尊氏の構図となり、帝から尊氏・直義兄弟追討の命が出される事となりました。この時、帝方の大将が、かの新田義貞でした。義貞は、手越河原の戦いで、佐々木道誉等と戦い、道誉を負かし降伏させました。この時、道誉は、弟を戦死させてしまいます。一時降伏して、新田軍に追随していた道誉軍ですが、箱根・竹ノ下の戦いで、突如道誉は義貞を裏切り足利方へ寝返ります。『思うところあって、やはり足利殿にお味方致す…新田殿、裏切り御免!』です。この道誉の裏切りがまた、絶妙のタイミングでした。両軍ギリギリの攻防戦の最中だった為…結果的にはこの道誉の行為により、新田軍は総崩れとなり、全軍敗走したのでした。

③鎌倉幕府裏切りの密約→ちょっと時代は前後しますが、後醍醐帝が、鎌倉幕府討幕の命を出された時、いち早く動いたのが、河内の楠木正成と播磨の赤松円心でした。で、この二人を討つべく北条高時は、配下の尊氏軍を京都に差し向けます。実はこの時、既に尊氏の腹は決まっており、楠木、赤松を討つ気など毛頭無く、目指すは、京都の幕府機関、六波羅探題でした。尊氏の戦略は、先ず六波羅探題討伐その後楠木軍、赤松軍と対峙している幕府軍を背後から討つ、でした。勝つ為には手段選ばず…ある記録によると、どうも尊氏と道誉は事前に合い通じていて、この時既に密約を交わしていたのではないかというのです。というのも、道誉は当時、北条高時から、『万が一にも尊氏に怪しい動きがあれば、討つように』と内々に命令されていたのですが、尊氏が京都六波羅探題を討つ事を薄々知りながら、尊氏軍に自分の近江国を易々通過させています。また、後に尊氏軍に敗れた六波羅探題の北条仲時軍が、京都から近江国経由鎌倉へ逃げようとした際、近江にて、2000〜3000の強盗集団に襲われ、蓮華寺という寺で一族郎党約400名余りが自決したというのです。当時、こんな大規模な強盗集団がいたとは考えづらく、これは強盗集団ではなく、近江の佐々木道誉の軍勢ではないかとの見方があります。

★政治家(策略家)として…

①引付頭人、評定衆、政所執事などの役職に就いて、公家側との交渉を行っていた。

②妙法院焼き討ち事件→道誉等一党が、京都東山にある天台宗寺院、妙法院と些細な事から諍いを起こし、最終的に寺を焼き討ちしてしまったという事件。寺院側から訴えが出され、状況が状況である上、朝廷側も寺に同情していた事情もあった為、道誉は京都追放、上総国配流となった。ところが、実態は、単に自分の領地(隣の近江国)へ戻り、しばらく大人しくしていただけで、何事も無かったかのように翌年幕政に復帰した。これについては、そもそも、当時妙法院と対立関係にあった室町幕府が道誉と共謀し、わざとトラブルを引き起こし、眼の上のたんこぶ、妙法院に大打撃を与えるものであったと言われています。もちろん尊氏了承の下の事です。

③道誉の裏切り偽装工作→幕府内で、政務を巡って尊氏と弟直義が意見が合わず、激しく対立する事態となりました。この時、幕府内に『どうも、播磨の赤松と、近江の佐々木が兄弟喧嘩ばかりしている幕府に愛想をつかして、南朝方に寝返るらしいぞ…』との怪情報が飛び交いました。これを聞きつけた尊氏は、数多の軍勢を引き連れて、自ら近江国へ、また、播磨国には、嫡男の義詮に出陣させました。京都から見たら、大軍が東と西にいる事となります…実は、この情報、そもそもデマ情報で道誉、赤松、尊氏、義詮等の仕組んだ陰謀であったのです。本当のところは、直義一党を討つ為、別に軍事的問題が生じた事にし、父子で大軍を東西に散らし、京都に居る弟直義を挟撃しようと謀ったものでした。ただし、直義もさすがで、怪しいと事前に察知。間一髪で直義一党は、京都を離れ難を逃れています。この謀略を計画した張本人が道誉です。

④盛大な花見会成功させ、政敵を追放!→当時道誉の政敵に斯波高経という人がいました。そもそもは、道誉が抜擢した人でありましたが、その後つけ上がり調子に乗るようになり、道誉を凌ぐ勢いとなり始めました。そこで、この人に一泡吹かせてやろうと道誉が思い付いたアイディアが花見会🌸だったのです。当時の花見会というのは、現在のものと大きく異なり、各々の力、勢力を世間に見せつける為のもので、まさに武士にとっては戦と同じものであったようです。下手すれば大恥をかく事となり、自分の明日からの立場や権力も失われかねないという一大イベントだった訳です。斯波が主催で、将軍の邸で花見を開催するのと同日に道誉は自分の花見会をぶつけて来ました。この時、道誉は京都中から芸能人を多数掻き集め、ド派手に開催し、世に類いなき宴と謳われるほどの盛大な花見会を開催し、多くの観客を集客し、大成功に終わらせました。一方の斯波はこれに敗れた形となり、これを機に勢いが衰えていく事になります。この後、道誉は反斯波派と手を組み、斯波失脚計画を実行して行きます。斯波に関して色々なところから悪情報を掻き集め、斯波にとって都合の悪いものを逐一当時の二代将軍義詮に告げ口し最終的に、将軍の義詮から斯波への京都追放宣言を出させます。これには、斯波も驚き、義詮に対し必死に身の潔白を訴えたそうですが、義詮は涙ながらに、『御免…でも今の世は将軍のボクでも思い通りに出来ないんだ…分かってくれ…自国へ帰ってくれ…頼む…』と懇願したそうです。つまりは、二代将軍義詮政権は事実上執事の佐々木道誉政権だったのです…

 と、数限りない政治的策略等があり、ハッキリいって紹介し切れない様に思いますので、今回はこれくらいにしておきたいと思います。より詳細をお望みの方には、太平記や、佐々木道誉の関連本がありますので、幾つかご紹介しておきます…

 

 

 

 

★文化人として…

さて、佐々木道誉は武士であるにもかかわらず、文化人としての一面も持ち合わせた多才な人でした。過去放送された、大河ドラマ太平記でもそうしたシーンが多数見られました。連歌、猿楽、茶道、華道、香道に通じていた様です。猿楽については、当時の第一人者観阿弥、世阿弥と親交があったとされ、自身自ら猿楽のパトロンにもなっています。茶道、香道、華道についても、自分の邸で定期的に会を設け、親交のある仲間達を積極的に招いたりしていた様です。こうした彼の文化的教養は、おそらくは公家との交渉、駆け引き等に大いに役に立ったのではないでしょうか?特に、茶道はその後武士達の間で浸透して行き、後の信長、秀吉に受け継がれ、千利休の登場で花開くものとなったと思います。

 

佐々木道誉の行動哲学、婆娑羅思想

この時代、婆娑羅思想というものがありました。そもそも、婆娑羅(バサラ)とは、サンスクリットでダイヤモンドの事です。いわゆる仏教用語で、当時の意味としては、(ダイヤの様な硬い力で)常識を打ち破るという事なのだそうです。特徴としては、

      ★実力主義

      ★身分秩序無視

      ★権威に対する反撥

      ★贅沢でド派手な振る舞い

      ★粋で美しいファッションを好む美意識

佐々木道誉は、まさに上記のような人物であった為、婆娑羅大名と呼ばれています。因みにこの時期の有名な婆娑羅大名としては、他に高師直、土岐頼遠がいます。いわば、この時期の彼等は、時代の最先端を行く、時代の改革者だったのではないでしょうか?そういう観点からは、尊氏にも多少こうした傾向が見られる様に僕には見えます。但し、弟の足利直義には見られません。逆に、直義は、彼が制定した建武式目の中で、この婆娑羅を禁じています。そういう意味では、直義は当時の保守派だったのでは、と思います。そもそも、こうした思想が蔓延したのは、鎌倉時代末期に末法思想が広まり、戦乱が相次ぎ自分の命もいつ果てるか分からない。また、朝廷や公家はオレたち武家をバカにし、下人扱いしてくる。人生やってられるか!どうせ一度の人生なら思い残す事のないように思いっきり生きてやる!と思うようになったとしてもおかしくはない様に思えます。この婆娑羅思想が後年、戦国時代に下剋上を生む事となります…

 

 

 

 さて、こうした権謀術数の塊のような人、佐々木道誉なのですが、足利尊氏に仕え、尊氏が亡くなって後は、嫡男で二代将軍の足利義詮に仕え、三代将軍足利義満の擁立にも尽力した後、政界を引退。静かに余生を過ごし、78歳で亡くなっています。一見ド派手で、やる事もハチャメチャなんですが、その裏には、緻密に計算し尽くされたものを感じます。それと、冒頭も言いましたが、尊氏を裏切らない、足利政権を裏切らない姿勢は一貫しているように見えます。誰が自分の主君であるかをハッキリ自覚し、それに従った行動を取っています。この辺りが、同じ婆娑羅大名でも高師直等とは、ちと違うように思えます…例えば、ハッキリ言って二代将軍義詮なんて、単なるボンボンのバカ殿でした。道誉の力量なら、その気になれば、いつでも追放して天下を取れたと思います。でも、そうした事はせず、義詮を立て、裏方の執事業に専念しています。そうした点では、室町幕府の基盤作りは、この人あればこそと思えるのです。まさに裏方さんの鑑のような人です。自分の分をわきまえています。おそらく、彼の中で、源氏本家=輝くブランドだったのではないでしょうか?他の事はいざ知らず、武家の世界の中で燦然と光り輝くこのブランドは、彼の中で神聖なものであり何としても死守すべき対象のように考えていたかもしれません。この一線だけは、超えてはいけないもの、のような思いでいたような気がします。後、単純に尊氏の事が大好きだった様にも思えます。二人の関係性を追って行くと、次第に友人から親友へと深化している様に見えるからです。

 大河ドラマでは、この道誉の役を陣内孝則さんが演じていましたが、見事な怪演でした。イメージにピッタリだった気がします。考えてみれば、陣内さんも元々は、ロックミュージシャン。権威や常識に抗うという点では、道誉同様、婆娑羅なところは一致している様に思えます…