元禄15年12月14日…有名な赤穂浪士討ち入りのあった日です。今日はこの赤穂事件について語ろうと思います…

 

 

 

 

 この赤穂浪士討ち入り事件は、あまりにも有名な為、多くの方はよくご存知かと思います。一般的には、いわゆる美談として現在まで述べ伝えられています。事件後、江戸でもこの話が浄瑠璃、歌舞伎となって今現在まで残っています。つまり、当時としてはそれ位インパクトのある大事件だった事が窺えます。

 この赤穂事件、一言で言うと、主君浅野内匠頭の無念、並びにその影響でお家を断絶させられ、失職した藩士達の無念を晴らした「復讐ストーリー」と言えると思います。で、どうしてここまで美談とされたか?それは、当時幕府が採用しより頼んでいた統治思想に関係があります。幕府は、朱子学を採用しており、君主と家臣の主従関係の絶対性及び忠義の美徳を強く掲げていました。つまりは、幕府が主君、諸大名が家臣という事です。実はこれが徳川幕府の統治根拠だった訳です。とすると、赤穂浪士達は、亡き主君の為に忠義の志を立て、蜂起した訳ですから、武士としては倫理的には当時の幕府思想に完璧に適うものであり、称賛されても良い位の話な訳です。しかし、見方を変えれば、現実にやった事は、いわゆる殺人であり、また、相手は吉良上野介という、それも名門上杉家の親戚に当たる大名です。格の違いがある訳ですよ。また、やり方ですが、夜襲です。いわゆるゲリラ戦みたいなやり方。真の武士なら鎌倉時代じゃないですが、「やあ、やあ、我こそは…」と堂々と名乗り、一対一で戦うのが筋ではとの見方もあったようです。

 こうした事で、事件後当時江戸では意見が大きく二分します。それが、今風に言えば、「赤穂義士有罪論VS赤穂義士無罪論」です。これには、幕府を始めとした武士階級の人々のみならず、江戸の庶民たちも巻き込み、この件は、当時としては大変大きな大問題となってしまったようです…

 

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 このような状況で、頭を痛めたのが幕府です。そもそも、吉良上野介という殿様、徳川家とは、関係も良好。また、名門上杉家の親戚という事もあり、影響力等も勘案すると、幕府としても一目置く存在だった訳です。当時の将軍は徳川綱吉。で、政権の中枢を担っていたのが、綱吉の寵愛を受けていた御側用人、柳沢保明。この柳沢保明に仕えていた学者に荻生徂徠という人物がいました。当時は幕府内でも、林大学頭らが、賛美助命論を繰り出したりしていたそうです。柳沢はこの荻生徂徠に意見を求めました。その時の荻生徂徠の意見は、「道徳倫理よりも、法を優先すべき」でした。

 この荻生徂徠という学者、実はあまり朱子学が好きでなかったらしいです。で、彼は、「天下を治めるのは、法、ルールである。全ての事は法と照らし合わせて結論を出すべきだ」と主張しました。確かに一理あります。で、当然ですが当時にも「法度」といういわゆる法律がありました。武家諸法度です。これに照らすと、彼等のそれは、死刑に値するものでした。なので、通常ならば斬首という事です。柳沢は、この論を展開、反対派と蹇々諤々やった上、最終的に将軍綱吉の了解も取り付け、赤穂義士裁定の結論は、死刑という事になりました。でも、確か忠臣蔵の最期は大石たちの切腹じゃなかったか?そうなんです、荻生徂徠は、柳沢に死刑の方法も進言していたんです。法的にみれば、通常ならば斬首なんですけれど、この場合、倫理道徳的な観点また当時の社会全体に与える影響も勘案すると。充分にいわゆる情状酌量の余地あり。よって、武士として名誉ある最期、切腹という形を取らせるべき、と主張したのでした。そして、実はこの切腹、大石内蔵助始めとする赤穂義士たちの望みでもありました。さすが武士です。討ち入り前から、全員死ぬ覚悟は出来ていたのだそうです。その後、粛々と刑は執行されました…

 

 これを見た時、私はこの荻生徂徠という人物、すごいなぁと思いました。間違い無く彼は、理性の人です。でも、血の通わない冷徹なロボットのような人間では決してありません。彼が情状酌量の念を訴えているからです。これまるで、現代の裁判官みたいですよ。彼は、この歴史的大事件を前にし、感情論で流される事なく、理性を思いっきり働かせ、事実を冷静に観察し、法を最優先させて裁定を行った訳です。私は、法律家ではありませんから、詳しくは分かりませんが、後の世に与える影響なども、彼は考えていたのかも知れませんね…いずれにしても、この荻生徂徠という人物、とてもバランスのとれた優秀な人だったようです。