ある日、診察に訪れたとある患者さんのカルテを取り出すと、表紙に付箋が貼ってあって、こう書かれていた。
‟モンスターです!怒鳴り散らします!”
恐る恐る、ご本人に確認をとる。
保険証の確認、お久ぶりの診察なので、問診のお願い。
確かに難しそうなお顔はされていたかもしれないが、とくにこれといったモンスター的言動は見られず。
診察にかなり待ったが、「大変お待たせ致しました。」と言ってお薬を渡し、会計を済ませると、、
「お世話になりました。」
と言って帰られた。
特に何の問題もなかった。
その後、しばらく日が経って、その患者様から薬や保険証の変更など、いろいろお問い合わせがあり、できること、できないことなど、のやり取りがあった後、その患者様のカルテを見かけた院長婦人から、こう言われた。
「この人!怒鳴り散らすでしょ⁈」
私 「いや・・・?この前来られた時は、別に何ともなかったです。」
院長婦人 「それは、ねねさんがお薬をサッと(早いという意味らしい)出すからよ。
遅かったらね、もう怒鳴り散らしてワヤなんよ。とにかく要注意人物なんよ!」
ははぁ・・あの付箋を書いた主は、院長婦人だったのか。。。
院長婦人のことだから、もしかして戦闘モードに入ったんかいな?
その後、その患者様はいらっしゃったけど、
「えらい無理ゆうてすまんな・・・」
と仰られたので、
「いえいえ、とんでもないです。お大事に。」
と、いと穏やかなやり取りで終了。
この方がモンスターというならば、もっとモンスターは存在するぞ。
もちろん、この方にもモンスタースイッチはあるのかもしれないけど、薬をサッと出す出さないとかじゃなくて、
奥さんもモンスターと化したんじゃあないのかい?
そりゃあね、なんか言われて徹底抗戦の構えを見せたら、相手だって抗戦してくるだろう。
戦おうとしなければ、戦いなんて起きない。
ある人がこういうことを言っていた。
「世界中の一人一人が、戦うのを辞めたら、世界から戦争がなくなる。」
らしい。
なるほど・・・!と思った。
戦いというのは、全ての戦いだ。
もちろん、大きな訴訟、対立などもそうだけど、小さな個人間の争い、例えばや夫婦喧嘩やご近所トラブル、ママ友同士のマウント合戦やいじめ等々、全ての争い。
こういった戦いを辞めて、明け渡して受け入れる。
もちろん、自分の考えを捨てて、相手に同調してしまうといった意味ではない。
私はこう思うけど、そういう考えもあるのね。じゃあ、お互いが我慢もせず、奪うこともしない方法はあるかな?と模索していくことだ。
無理を言ってくる患者さんは、確かにいる。
でも、
「ダメですっ。それは出来まっせーん!!」
と突っぱねると、絶対揉める。
「これは出来ないのだけど、その代わりこうしてああして、こんな方法もあるよ。」
と代替案をだせば、大抵の方は、
「ああそうなの。ありがとう。」
と引き下がってくれる。
引き下がることなく、戦ってしまうと、
結果はグダグダ。
しかも無駄なことに時間は割かれるし、自分も疲弊。
あげく、引きずって自己嫌悪に陥る。
目の前の人と、戦いそうになったら、自分に聞いてみる。
「それは愛なの?」
ここで愛という言葉を出すと、誤解されそうだけど、
嫌いな相手を好きになれ、という意味ではない。
要するに、「大人な良心のある考えであるか」ということ。
自分の‟良心”が、それを許すのか、ということ。
そういえば、前にメインブログでこんな記事書いたけど。
こうやって流すというか、そうじゃない方法をとるというのは、自分の為にも実は非常に大事なこと。
それに、正しいか間違ってるか、正義か悪か、良いのか悪いのか、そういった、
「どちらかじゃないといけない」
ところに身を置くと、争いは絶えなくなる。
ちょっと話はずれるけど、多様性多様性いいつつ、今の世の中ほど多様性を認めない風潮はない、と思っている。
ちょっとアレなことを記事にすると、削除されるとか、ちょっとアレなことを動画で語ると、収益化から外されるとか、いろんなことを目にするし耳にする。
あーんな考え、こーんな考え、それも有りよね、というのが多様性を認める、っていうんじゃないの?と思っている。
これが正しい!だから、こんなことを言うなんて間違ってる!
ってなれば、そりゃ争いは生まれる。
・・・話がちょっと逸れたけど、
平和を心から願うなら、もちろん支援とは寄付という形でもいいけれど、たった今から個人的にできることがある。
それは、
戦わないこと。戦いを選ばないこと。
戦いそうになったら、そこに愛(良心)はあるのか、問うてみる。
で、そうじゃない方法を選んでみる。
要は、テレビやネット見て反応するより、自分の内側を見たほうが、よっぽど平和に貢献するんだよ~、という画期的な提案でした。 (←なんて素敵な絵文字だ)