
鞍山での住所(2025/10/12)
鹿児島のSさんが満州の鞍山について書かれている。
「鞍山(アンシャン)」~私の知らない父の妻、
https://senthugu-kagoshima.
「この話は、父深志と妻だったナツエさんをモチーフにした物語です。」
Sさんとの以前のやりとりだが、このようなものがあった。
「貴殿の記事で鞍山のお住まいが南一条町26番地だったとあったようですが、同じ頃私の父と父の前妻が南一条町24番地に住んでいたようなのです。」
Sさんの御父上と私の母の一家は、同時期に鞍山のかなり近接した位置に住んでいたようだった。
ちなみに、Sさんのいう「貴殿の記事」とは、HTML作成による下記のサイトの内容である。
【戦時下の生活・母編】
【戦時下の生活・伯母編】
かなり本題から話が逸れる。
2023年に父が94歳で亡くなり、その納骨や葬儀で玄海町に行った帰り、母方のみやき町を訪問し、みやき町役場にて母の除籍簿などを取得した。加えて佐賀県庁にて大叔父である西原五郎の軍歴簿も取得することができた。
父方の家系図は、2017年から私が玄海町にある先祖の墓を、年に2回程度訪れ、定期的に清掃するようになって後、まとめ上げて完成済みだった。その過程で父の同級生お二方に戦前戦後の昔の話をインタビューするうち、昭和20年7月、玄海灘沖で、父や同級生の見守る中、米軍機により撃沈された貨物船の船名が判明したり、また、父の同級生Nさんの義兄が外津湾に建設された震洋隊の部隊長だったり、震洋隊基地建設に駆り出されたNさんの体験を聞いたりと、とにかくいろんなことが判明した。(こういったネタをブログ形式のこちらを活用し、今後、累積していこうと思う)
ということで母の戸籍謄本などが揃い、昨年からようやく長年の懸案となっていた母方の家系図作成に取り組み始め、戦後80年の今年の盆休みにようやく体裁が整ったのだった。
戸籍の所得から着手までにかなりの時間を要したが、実は深い理由があった。父方の家系図は、私が本家筋にあたるため私の戸籍謄本を取得すれば縦に遡ることができ、また、祖父の「きょうだい」が少なかったこともあり、縦に長いものとなったのだが…
一方、母方の場合は、両親が結婚した昭和38年までの母の除籍簿などが中心となり、また、母の「いとこ」の人数が多いため、横に長い巻物のようなものになると考えられた。本家筋、及び、分家筋である母の情報、加えて祖母方の情報を、どのような手段を用いて二次元図にまとめるのか?アイデアがなかなか浮かばなかったのである。この家系図には私の「いとこ」を含めてないが、それを加味すれば更に横に長いもとなってしまうだろう。
最終的には、実家の整理で発見された母方名義の土地処分に関する行政書士からの資料で、母の戸籍から得られる情報より更に先祖の名が判明し、母方の家系図は計5代が記載されることとなった。

話を元に戻す。
母の戸籍には、祖父の情報が記載されているわけだが、それによると…
満州での居住地は「満州国鞍山南一番町26番地」
ちなみに、この住所は二戸目の住居で、満州に渡った当初は、線路の東側、富士小学校の近くの音羽寮だったらしい。
また、祖父「昭和18年4月2日6:45、満州国奉天省鞍山市南九条町38番地にて死去」とある。南九条町38番地は「満鉄病院」であり、母の記憶「鞍山製鋼所病院」ではなかったのだが、ここで少し気になることが判明した。
前出のSさんによると「南一番町だったとあったようですが、同じ頃私の父と父の前妻が南一条町24番地に住んで…」
戸籍で確認した母の一家の住所「南一番町26番地」、Sさんのお父さん「南一条町24番地」…
これには気付かなかった。
そういう落ちである。
この「南一番町」と「南一条町」の違いだが、満鉄の鞍山駅をはさんで、ちょうど東西に対面500mほどの位置だったようだ。そう考えると近所かもしれない。
母の思い出、タンク山。小学校低学年の頃。曙町の親戚の家に泊まり、一人で鉄西の自宅へ歩いて帰る際に横目に見ながら歩いた、そんな思い出…


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