『ひとによる復興』
神戸。
祖父が住んでいたこともあり、ずっと好きな街。
高校生のときは、電車でナンパしに行ったりしてた。
三宮で遊んだり、異人館でデートしたり。
車を手に入れてからは、毎晩のように六甲山や布引山から夜景を見て、
その後、夜中の静かな街を目的も無く、ただブラブラと流したりしていた。
そんな中で知り合った、「呼び名」しかしらない友人たちがいた。
もちろん普通の友達もね。
震災2日後から一週間、瓦礫の撤去や炊き出し等、正式なボランティアでは
全然ないが、お手伝いらしきことをしに、神戸だけではなく、芦屋、西宮にも行った。
その後も帰阪するたびに行った。
街のあちこちに積み上げられていた瓦礫が、だんだん減っていく様、
無造作に並べられた遺体が、手厚く葬られていく様、
傾いたり崩れ落ちたビルがあった場所が、更地になり、新しい建造物が建てられていく様、
そして、街並みが変化していき、夜景が甦っていく様を見てきた。
そんなことを振り返ったときに思うこと。
いつからか『奇跡の復興』と、言われている。
考え方は人それぞれだから、そう言うのを否定しようとは思わない。
ただ、わずかでも現場を見た俺は、そうは言いたくない。
小さい子が一生懸命、親を励ましているのを見た。
お年寄りが一生懸命、瓦礫を片付けているのを見た。
世代も職業も関係なく、一生懸命、活動しているのを見た。
もちろんキレイゴトだけでなく、ケンカや罵り合いもあった。
そんなこんなを含めて、みんな一生懸命だった。
だから俺はこう言いたい。
『ひとによる復興』
『人々のちからによる復興』
あれから15年。
正直、記憶がアヤフヤな部分もある。
いつもこの事ばかり考えている訳ではない。
それでも神戸に行くたびに、西宮や芦屋に行くたびに、
強く思う。
長々と・・・・
その日、その時間。
俺は名古屋にいた。
色々とあって、ほぼ全ての人間関係をリセットして大阪を離れ、
高校の友達のとこへ居候。
半年経って一人暮らしを始め、実家の持ち物を全て運び込み、
解放感に浸りつつ、なぜかスッポンポンで寝てた。
そして揺れを感じて目が覚め、特に慌てることも無く、「一応」
といった感じで服を着た。
しばらくして揺れが収まり、なぜか再び服を脱いで布団に包まった。
5~10分ぐらい経ってから震度を確認しようとTVをつけた。
地震速報は愛知県や三重県の震度を表示していた。
最大で震度3。
俺は安心して再び眠りについた。
そして昼前。
当時バイトしていた大手雑貨屋に出勤。
その日、最初に会った社員さんに、
「キミ、大丈夫か?」
と言われた。
何のことだか判らず、
(なんや、俺、顔色でも悪いかんかな?)
と、思いつつ、
「ええ、大丈夫ですよ」
と、答えた。
その職場の人は、
「そうか、良かったね」
と、なぜだか物足りなそうな顔をして去っていった。
そのまま仕事に入り、夕方。
今度は別の、仲の良い社員さんに、
「家は大丈夫だったの?」
と、聞かれた。
(はぁ?家?)
と、思ったのがそのまま顔に出たのだろう。
社員さんの顔が、驚いた表情に変わり、
「地震だよ、知らないの?」
と、俺を、TVが置いてある事務所に引っ張っていった。
TVには、特撮映画やドラマで観たことあるような映像が流れていた。
煙がもうもうと立ち込める町。
崩れた建物。
(めっちゃリアルやなー)
そんなことしか思わなかった。
そして次に流れた映像。
なんだか長細い壁が、延々と連なっている。
そのとき初めて音声が聴こえた。
たぶん、キョトンとした顔をしてる俺を見て、事務所の誰かが
ボリュームを上げてくれたのだろう。
『阪神高速神戸線が~・・・・』
と、聴こえてきた。
その瞬間、膝が「カクッ」と崩れかけた。
しかし、アタマではまだ何が起こったのか理解していなかった。
横で社員さんが一生懸命、何が起こったのか、どういう状況なのかを
説明してくれていたみたいだが、ほとんど聞こえていなかった。
ただ、単語として、
「神戸」
「大地震」
「震度6~7」
「大阪」
「道路」
「救助」
「死者」
「自衛隊」
「対応」
というのが耳に残ったが、全くアタマで繋がっていなかった。
後日、社員さんに聞いたら、目はずっとTVを観てて、表情は変わらず、
なのにだんだん身体が震えてきてて、とても不気味だったそうだw
そんな状態の俺を見て、別の社員さんが、
「とりあえず、家に電話しなさい」
と、言い、それは理解できたので言われるままに電話した。
当時、電話が繋がりにくい状況だったらしいが、幸い一発で繋がり、
電話口に出た親父に、
「俺やけど・・・・大丈夫か?」
と聞いた。
状況を理解してないのに「大丈夫か?」もないもんだが、このとき、
一番印象に残っていた言葉を、そのまま言っただけなんだろう。
で、親父から帰ってきた言葉が、ほとんど泣き声に近い喋り方で、
「もう・・・むちゃくちゃや・・・」
それを言われた瞬間、なんだかアタマが一気に回りだした。
電話の向こうで、親父が家の状況を色々言うのを聞きながら、
更に、TVから流れてくる音声、表示されてる字幕情報を読み、
どうやって帰るか、帰ってから何をするかを考えた。
そのうち親父の泣き声にイライラしだしw、
「もう解った!今から帰るから、片付けとけ!」
さっきまで感情が読めない態度だった俺が、いきなり解り易い感情を出したからか、
その事務所にいた一部の社員さんが「ビクッ」ってなったのを覚えているw
で、バイトを早引きさせてもらい色々段取り、友達に車を借りて翌日大阪に戻った。
「翌日大阪に戻った」
夕方に「今から帰る」と言って、なぜ翌日なのか。
名古屋を出たのが20時過ぎ。
実家に着いたのが朝9時過ぎ。
名神なら約3時間。
俺が好んで使う省エネルート「名阪国道ルート」でも、夜なら4~5時間の距離。
それが12時間。
公共交通機関が全部ストップしていたから、車を選択したんだが、
大阪名古屋間の高速、名神も西名阪も、通行止めではなく「通行禁止」。
愛知三重はそうでもなかったが、名阪国道で奈良に入った辺りから車が増えだし、
天理から生駒山を抜ける辺りで渋滞が始まって、大阪に入ったらほとんど動かない状態。
ここまでで4時間。
府内に入ったら、実家のある豊中まで「中央環状線」を通るのだが、
そこに入ったらもう全く動かない。
バイクも動けないぐらい、車がビッシリ。
うっすら空が白みだした頃、何とか淀川を越え、あとはひたすら裏道。
免許取立ての頃、無駄に走り回ってたのがすごく役に立ったw
で、家の近くに車を止めて降りると、あたりにはガスの臭いがプンプン。
道路に亀裂は走ってるし、壁が崩れてる家もあった。
倒壊してる家は無かったが、それでも町の雰囲気、というか
『空気が歪んでる』みたいな印象を受けた。
特に実家の近所は古い建物が多かったのでそう思ったのかな。
帰宅してみると家の中は、
『ぐちゃぐちゃ』
の一言。
中なのか外なのか、それすらハッキリつかめない。
屋根はある。
あるけど・・・・・みたいな感じ。
幸い家族や親戚はみんな無事。
ただ、一つタイミングがずれてたら、たぶん弟は今、この世にいないと思う。
というのは当時住んでたのは2階建ての一軒家だったんだが、部屋数はLDKを除くと
3つしかなく、俺の部屋と両親の部屋、あとは箪笥部屋。
この箪笥部屋、文字通り箪笥だらけで、6畳のスペースに5棹もあって、
更にそのうち3つはお袋の嫁入り道具で、馬鹿デカイものだった。
震災時、その箪笥たちは、
「社交ダンスを踊ってみんな足が絡まってこけた」
かのように、2つに分解してるわ、引き出しは飛び出してるわ、で、
我が家で一番『ぐちゃぐちゃ』の状態だった。
その箪笥部屋を弟が使っていた。
前述の通り、俺が名古屋で一人暮らしをするにあたり、俺の部屋にあったものを
震災の5日前に運び出し、弟はその3日後、15日に俺が使っていた部屋に移動していた。
俺の荷物を名古屋に運ぶのには、親父に手伝ってもらったのだが、
実は、仕事の都合で一週間ずらす話もあったのだ。
もし、その運び出しが遅れていたら。
また、もし弟が部屋を移るのを遅らせていたら。
そう考えると今でもゾッとする。
一番でかくて重い箪笥は、弟が寝るときに、アタマを置いていた位置の
まさにその場所に倒れていたのだ。
しばらくはそれを思い出すたび、身体が震えていた。
先に書いたが、結果的に家族親戚はみんな無事。
物的な損害も、他に比べたらマシな方。
『震災で被害を受けたけど、運が良かった』と、悪びれることなく思う。
2日後、それ以上の状況を目の当たりにしたから。
19日から一週間。
俺は神戸にいた。
「イーーッ!」といえなくて2010 冬 その2
6日。
この日は、昨日の追加撮影後、メインの室内シーンの撮影。
室内セットの一部。
5日は、監督と出演者2人しかいなかったが、この日は5名。
そして撮影場所は「あべ缶スタジオ」
勝手知ったる場所なだけに、馴染みの無い下釜さん以外は、
何となく「のほほ~ん」とした感じでした。
しかし、このあと・・・・・、
俺にはとんでもない試練が待ち受けていた。
その試練とは!?
・・・・・・・・「ネタバレ」になるので、まだ書けませんw
って、引っ張るほどのことでもないんだが。
ようは、今回のブログのタイトルに絡んだことで、
そのシーンだけNGを連発してしまい、
ちょっと皆を焦らせたということです。
この作品は学校への提出課題なので、
それが終わったらYou Tubeにアップするとのことなので
それまでお待ちください。
ちなみに現在、
監督が必死で編集してます。
提出期限が明日なんだとw
タイトル
『私ヲ立派ト呼バナイデ』
乞うご期待www


