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大河ドラマ八重の桜を久方ぶりのまともな大河ドラマだと思って楽しんでおります。細かいことは言いたいことがある訳ですが、基本的に大河ドラマは歴史風ドラマであり、ある程度の演出、史実との違いが生じても致し方がないと思っております。
 
だが根本的におかしい部分は指摘しなくてはなりません。 第七話『将軍の首』の兄、覚馬が旅立つ前に川崎尚之助が元込め銃の銃身を見せて「弾はここから入れます。銃口から押し込むよりずっと早く撃てます。」と言い「ペリー来航のおり、幕府に献上された銃がこんなしくみだったそうです。」とも言っています。
 
ともあれ、その場面が上の三枚ですが、横からのシーンは肝心な部分を覚馬の後ろ姿で隠し、後ろから元込めのメカ部分を見せています。前ヒンジのこのメカニズムは、米国のスプリングフィールドM1865とその発展型であるM1873までの系列に見えます。この銃は元込め式ライフル銃の一つで、銃身後部の上側にフライス盤で穴を開け、そこにヒンジで開閉するブリーチブロック(尾栓、閉鎖器)を設け、ブリーチブロックを上に引き上げて薬室に弾丸を挿入後、これを下げて閉鎖し、親指で操作するカム型ラッチで固定するようになっていました。ブリーチブロックには撃針が組み込まれており、撃針形状に合わせて撃鉄は平に加工されており、このヒンジで開閉するブリーチブロックの動きが「跳ね上げ扉(トラップドア)」に似ていたため、M1865は「トラップドア・スプリングフィールドと呼ばれました。もちろん弾丸は金属薬莢です。M1873はリトルビックホーンの戦いで米第七騎兵隊が装備していた銃として有名ですね。
 
会津藩が京に出兵したのは文久二年(1862年)の12月であり、その装備していた銃は大半が火縄銃ほんの一部がゲベール銃(先込め式の滑空銃身)だったかもしれない状態でした。先込め式ライフル銃のエンフィールド銃を薩摩は1863年8月以降、長州で1865年の第二次長州征伐の前ぐらいに入手したようですが、会津藩が本格的に入手し始めるのが1868年の鳥羽伏見の戦いに敗れてからです。
 
その状態で川崎尚之助が、1862年に会津藩内で元込め銃を試作したされても
まったくリアリティーがありません。明治になって工作機械を輸入するまでは、国内ではライフル銃身すら作れなかったのです。ましてや元込め式ライフル銃は薬莢式弾丸とセットのものなのでまったく無理です。 NHK関係者は元込めだから高性能だという認識なのかもしれませんが、ライフル銃だからゲベール銃(先込め式の滑空銃身)よりも高性能なのです。
 
いっそのこと、『川崎尚之助が西洋に先駆けて薬莢式弾丸を考案したが、工作技術の問題で量産できなかった』という話にした方が、ネタとして面白かったと思います。
あの銃身で試射したら暴発するかもしれません。そういう話にするのかも。
 
ペリーが幕府に献上した銃について調べましたが、真相はわかりませんでした。
ただその当時米国にホール騎兵銃というのがあって、元込め式だが前方に給弾口が開く構造で佐久間象山がこれを参考に銃を考案したという話があります。 これが元ネタなのかもしれなせん。