「どうしたの?」
 幼い声が、遠のいた意識を引き戻した。
 「泣きそうな顔してるよ」
 虚を突かれ狼狽えそうになる。誤魔化そうと歪んだ口元を手で一度撫で、「そんなことないよ」と繕うように返事した。
 「ウソだ」
 息子の重い口調と、僕を射抜くように注ぐ視線に、自分を騙せなくなった。額と頬を覆うように垂れ下がろうとする頭を両手で支え、声なく小さく何度も頷いた。グッと噛み締めた唇がほどけそうになる。眼窩が熱くなりじんわりと生温かい水が零れた。
 「お父さん…?」
 「大丈夫」

 『反抗』という旗を掲げ、この国の不条理に立ち向かい独りで死んで逝った哀れな友。誰一人として理解しえなかった『平凡』の2文字を、身を挺して僕達に託そうとしていたのに。あの時、僕は友を信じず見離した。
 息子は理解できるだろうか? 
 ───幼すぎる。

 「なぁ、今のこんなのんびりした時間を誰がくれたと思う?」
 「んー、お父さんかな」
 そう答える息子が、何に屈服するでもなく、無事に育っていることを確信する。 
 「お父さんか…」
 「違うの?」
 そっと頷いてみせた。 
 「違うんだ、お父さんの友達だよ」
 「ふーん、そっか…」
 疑いもなく息子は返答する。
 自然に流れる会話が不思議で、自ら息子に問うた。
 「お父さんってどうして思った?」
 「だってお父さんといると楽しいよ」
 幼さとはこんなにも温かい。真実と疑いようのない答えをくれるのだから。
 「じゃ、お父さんの友達って誰か分からないだろう?
  なのに、納得できるのか?」
 今度は小首を捻りこちらを恨めしそうに見つめた。
 「お父さんがそう云ったんじゃないか。だから信じたのに」
 無垢がゆえ、何でも受け入れてしまう。それが怖い。
 
 親友はきっとそれを伝えにきた。この国の僕等は知らずと幼い頃から刷り込まれた虚無の安楽の中で生きていると。それを僕はどうしても信じられなかった。気づく間も無く、きっと成長さえも奪われ、抗うことの術さえ持ち合わせていなかったんだ。
 
───君を失くして思うよ。生きると云うことは、時に過酷で悲しみや痛さも伴うんだって。
 痛いんだんだ。君が居なくて。
 こんなにも計りしれない存在になってると思わなかったよ。
 ねぇ、笑うことって大きな声を揚げたりもするんだね。拗ねて口を尖らせて泣いてまた笑う。当たり前の表情を僕は放つことが出来なかった君はこっそり縛られた枷を解いてくれてたんだね。出来るんだ、今なら。大切なものにそうしたいって想う。
 ねぇ、どうして君は僕の許に来てくれた?
 
 今更、訊けないね…。
 
                                《つづく》
Halcyondays


 夕刻前の曖昧な時間。息子と海辺へ散歩に出掛けることにした。
太陽は照るでもなく隠れるでもなく、薄く白いヴェールを被ったように光を加減している。
海風は緩やかに通り、潮は凪いで天の色を映していた。
辺りのパノラマは、まるで白昼夢のようで意識がはっきりしない。
空と海の境はどこだろうか?
 呆けた意識を呼び覚ますと、そこにはヴェールから洩れる白い陽のおかげで色合いが同化した世界が重なっていた。天を仰げば薄い光が注ぐ。視線を下方へゆっくりズラしていくと、海面にはキラキラした白金の光が泳いでいるのが解った。

 自己も失いそうな、穏やかな午後…。

 息子は我先にと浜の方へ走って往く。漁船で一息つく海鳥達を見つけるやいなや駆け寄って逃げる彼等を追い廻す。息子が追いつく寸前で、迷惑気に2、3度羽をバタつかせ飛び去った
 それを見送る息子はつまらなそうにするでもなく、海鳥が空中で旋回しているのを表情を変えずにじっと見つめていた。
 僕が近づいているのを察知したのか、素早くこちらへ振り向き、ニコッと笑う。
 「逃げちゃった」
 「追い回すからだよ」
 そう言葉を交わすと、息子は嬉しそうにまた走り出した。
 先頭に灯台のある堤防へ辿り着くと、細い両腕で灯台を抱えるようにして際を抜け、景色が最も美しく、正に真下に海が広がる先端を座って陣どった。
 時折吹く風が、息子の前髪を踊らせる。
 ゆっくりと其処へ向かい、そして傍らへ同じように腰掛けた。顔を見合わせると、息子は思い立ったように僕の肩に手を掛け、慎重に膝の上へ移ってくる。眼下に広がる海が脚を強ばらせるので、動作が心許ない。小さな体が落下しないようしっかりと股の間に挟み、お腹の辺りに腕を廻して覆った。
 まったりと流れる時の最中、ふと堤防横のテトラポットの隙間から微かに発つ波の音が耳に侵入する。その音に俄に反応する記憶。沸々と浮かび上がる残像がおぼろげに姿を現し、悲しげにこちらに微笑んだ。
 記憶の隅っこにそっと隠した存在。想い出す。此処で幾度となく言葉を交わし、互いを認めあったこと。なのに最後だけは、分かり合えることなく逝ってしまった友。

 君はあの日何を伝えに着たのか?
 前日の喧嘩で、僕は君に会いたくなかった。
 逃げたんだ…。
 数日後、
 君は小瓶の中に白く脆い塊で還って来た。
 僕等はどんなボタンの掛け違いをしたんだろう。
 悲しくて、苦しいよ。

                   《つづく》