ストーム・ソーガソンの婚約物語 | プログレッシブBBSの思い出_ピンク・フロイドmemorandum

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〈ザ随筆〉での執筆記事も再録準備中.






2013-07-29 06:02:45
  「R.I.P. Storm Thorgerson_Pink Floyd "High Hopes"」の記事で
  
「ストーム・ソーガソンの婚約物語」を加筆
2014-04-19 01:37:43
  
「ストーム・ソーガソンの婚約物語」を独立した記事として掲載
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2014-04-22 02:42:19
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TateShots: Storm Thorgerson on Magritte (03:14)
Uploaded on 2011/08/01 by Tate


Storm Elvin Thorgerson
   (28 February 1944 – 18 April 2013)


  
 ピンク・フロイドをはじめさまざまなミュージシャンのアルバムカバーアートを手がけていたストーム・ソーガソン。
彼が旅立ってから1年になります。
 


David Gilmour and Roger Waters of Pink Floyd between Storm Thorgerson photo possibly by Jill Furmanovsky

http://stuffnobodycaresabout.com/2013/04/26/rock-n-roll-loses-3-greats-in-april/


 シドのぶんまで元気で長生きしてもらいたかったひとなんですが、そのシドの旅立ち(2006年7月)から、もう8年になります。その間にはリックの訃報もありました(2008年9月)。

 ストームとピンク・フロイドのメンバーには、ケンブリッジで暮らしていた十代の頃からの長く深いおつきあいがあります。

 ロジャーは、ケンブリッジの男子高校ではストームの1学年上の先輩で、ラグビー部の仲間です。
 シドは、ストームと同じ高校の1学年後輩で、美術方面の趣味を持つもの同士。
 シドとデイヴは同い年で、デイヴが初めてシドの家に遊びに来たのは15歳ぐらいのときでした。シドの部屋は同年代の友人たちのたまり場のようになっていたそうです。
 ハイティーンの頃には、ストームの家もシドたちが夜更けによく集まる場所になっていました。

 高校を出た後のデイヴは、ケンブリッジ・テクニカル・カレッジに進んで言語学を専攻しています。同じ学校の美術科にはシドが在籍していて、ふたりはお昼休みには毎日のようにいっしょに過ごしていたということです。

 シドとロジャーはロンドンのカレッジに進んで、後にピンク・フロイドとなるバンド活動を始めるのですが、その間もストームやデイヴとのつきあいが続いていました。
 ストームと彼の恋人リビー・ジャニュアリー嬢が、ピンク・フロイドのライブステージを用意してくれたこともあるのです。
 それは1965年11月のことでした。
 そのときのステージでは、シド、ロジャー、ニック、リック、デイヴという、5人フロイドの演奏が初めて実現しています。

 ここでは、その経緯を「ストーム・ソーガソンの婚約物語」としてまとめてみました(参考文献を引用しながら解説するととても長くなってしまうので……)。
 さまざまな出来事とその顛末については、参考文献に登場するストーム・ソーガソンほか数名の、当時の関係者による証言部分をもとに構成しています。
 参照した書籍と資料については、末尾に記してあります。



ストーム・ソーガソンの婚約物語
5人フロイド初共演を1965年に実現させた
ストーム・ソーガソンとフィアンセ
の物語


 
(1)時代背景:
    1965年のピンク・フロイドと
         ジョーカーズ・ワイルド


 ピンク・フロイドがマーキーやUFOクラブのような著名なライブスポットに出演して人気バンドになるのは、1966年からです。
 シドが加入してからの64年 - 65年は、演奏できる場所がまだ限られていました。
 時おり近所のパブやクラブに出演できるようになったとはいえ、結成した頃の演奏場所である、学校や友人関係のパーティという私的なステージも、あいかわらず続いていたのです。
 加入2年目のシド(19歳)は、ロンドンのアートカレッジに在学中。
 ニックやリックと同じ建築工芸学校に通うロジャーとは、同じところに下宿していました。
 64年にはリードギター担当のボブ・クロースやヴォーカル担当のクリス・デニスも加入したのですが、このふたりが65年の初め頃にバンドをやめてからは、シドがギタリスト兼ヴォーカリストになりました。

 シド、ロジャー、ニック、リックの4人が当時使っていたバンド名はピンク・フロイド・サウンドでしたが、これはおもに近所のパブでライト・ショーつきの演奏をするときに名乗っていたようです。
 この時期のバンド名は一定していなくて、下宿先の大家さんの名前からつけられたレオナード・ロジャースとか、その前に名乗っていたTセットとかのバンド名も使われていました。

 一方、デイヴ・ギルモアは、64年頃、地元のケンブリッジではギターの腕を買われて、いろいろなバンドから引っ張りだこでした。呼んでくれるバンドがひと晩で稼ぐギャラよりも、その晩のデイヴひとりのギャラのほうがはるかに多かったのです。
 65年になると、
デイヴはジョーカーズ・ワイルドというバンドの正式なメンバーになり、ギターとヴォーカルを担当するようになります。
 デイヴは、ケンブリッジ・テクニカル・カレッジで言語学を学んでいましたが、そこで身につけたフランス語が役立つ機会が訪れたのは、65年の夏のことでした。
 シドが学校の仲間たちと夏休みにフランスへ遊びに行くというので、デイヴもジョーカーズ・ワイルドの仕事を休んでヒッチハイクでフランスに到着し、現地で合流したのです。

 以下の出来事は、その夏休みが終ってからのことになります。


(2)出来事:リビーのバースディ・パーティ


 1965年の秋のある日、ストーム(21歳)が、シドとロジャーのところへ、こんな話を持ってきました。
「11月X日に、君たちのバンド、ケンブリッジに来てくれないかな。ステージは、リビーの家のガーデンパーティ。知ってるだろう? 俺の彼女……。けっこういい いとこのお嬢さんだからさ、親父さんがリビーの成人祝いには盛大なバースディ・パーティをやるって前から決めてたんだって。まぁ、社交界にデビューするみ たいな感覚なんだろうね。で、彼女が言うには、
親父さんのつきあいのひとだけじゃなく自分の友だちもたくさん呼んでいいっていう許可をもらったんだってさ。リビーも、いろんな連中に声をかけてるところなんだ」
 リビー・ジャニュアリー嬢(20歳)が招いた同年代の友人というのは、ちょっといかれた若者たちが多かったようです。
 ミュージシャンの友人のなかには、ストームやシドを通じて知り合ったデイヴ・ギルモアのバンド、ジョーカーズ・ワイルドも含まれていました。最近イギリスにやってきた、若いアメリカ人のギター弾きも招かれているということです。

 数日後。
「とりあえず3つ のバンドが出演することになったよ。君たちのバンドがトリなんだけどさ、ほどほどに盛り上げてくれよな。正装してくるお客も多いんだからさ。俺としてはいつもの君たちの演奏を聴きたいんだけど、リビーの親父さん、俺たちの結婚を認めるかどうかを、その日に決めるつもりらしいんだよ……」
 ストームの胸中には、一抹の不安があったようです。
 なんでも、リビーの父親ジャニュアリー氏は保守的で敬虔なタイプで、テレビに女王陛下が映っているだけで、家族や来客を全員立たせて自ら敬礼するというひとだというのです。ストームとしては、もう決まっちゃったことだから仕方ない、と腹をくくったものの、当日まではろくに眠れない緊張の毎日だったのかもしれません。

 当日。
 ガーデンパーティのステージが始まりました。
 ジョーカーズ・ワイルドは、急遽、若いアメリカ人のバックバンドになり、チャック・ベリーの「ジョニーBグッド」などを演奏しています(……このアメリカ人は、ポール・サイモンなのでした。前年のデビュー曲「水曜の朝、午前3時」が売れなくて失意の渡英中に地味な音楽活動をしていた、なぁんてことをフロイドのメンバーが知るのは、ずっと後のことです)。
 そのあとのジョーカーズ・ワイルドのステージにも、地元の青年ピップ・カーターが飛び入りで参加して、ボンゴをたたいています。曲目はビートルズの「ミッシェル」。
  そこへ加わったのが、シドと、その友人イアン・ムーア。ボー・ディドリーの曲を歌っています(……このイアンは、そのあとピンク・フロイドの照明スタッフに加わって、後年にはツアー中のデイヴの家の管理人として働いたり、ストーム監督制作のミュージックビデオ(ニック・カーショウ「ザ・リドル」等)に出演したりしています)。
 そして、シド、ロジャー、ニック、リックの4人のバンド、Tセットの登場。
 途中からはデイヴも飛び入りでステージに上がってきて、さらに盛り上がります。
 曲目はわかりませんが、この時期のレパートリーはフロイドもジョーカーズ・ワイルドもおおむねR&Bのコピーですし、当時のシドが好んだバンドのひとつ、ローリング・ストーンズのナンバーだった可能性もありそうです。

 演奏が終わった頃には、パーティのお客さんは、保守派とそうでない派に二分されていました。ジャニュアリー氏はもちろん前者。ストームは後者です。
 ストームは不安をお酒で紛らわすつもりだったのか、やけっぱちだったのか、その時点でかなり酔っぱらっていたこともあって、この直後の騒ぎを機に、会場から追い出されてしまいます。
 その騒ぎというのは、ストーム以上に酔っぱらっていたシドがきっかけでした。
 テーブルクロスをつかんだシドが、「さぁ、みなさん、手品をお目にかけますよ」と言って、サッとクロスを引っ張ってしまったものですから、グラスやお料理が宙を舞うという幕開けです。
  さらにシドは、ジンの瓶を片手に、イアン・ムーアといっしょにふたたびステージに上がろうとします。アンコール曲をやるつもりだったのですが、結局のところ歌うことも演奏することもできませんでした。その時点でかなり酔いが回っていて、マイクまで辿りつけなかったのです。

 そんな出来事があったにもかかわらず、どういうわけか、ストームにとってはこの日のパーティは結果オーライでした。
 ジャニュアリー氏が娘かわいさにいさぎよく意を決したのか、この家の庭の神様が奇跡を起こしてくれたのか、ストームはリビーとの結婚を認めてもらえて、後日には婚約にこぎつけることができたのです。
 

(3)後年のこと:
    3人の子どものパパになったストーム


 ストームとリビーの間には、結婚後に男の子が生まれました。名前はビルです。
 その後のストームは再婚して、奥さんのバービーの子どもたち、アダムとジョージアの父親にもなりました。
 
 今世紀に入ってからのストームは、2003年の脳卒中回復後も精力的に仕事を続けていましたが、癌との戦いも始まっていました。
 ふたたび病床についてからは、ビル、アダム、ジョージア、バービー夫人、ストームのお母さんヴァンジー夫人が何かと力になってくれて、ストームは最後まで仕事のことを気にかけながら、家族や友人たちに囲まれて安らかに旅立ったということです。




(1)(2)参考資料:
書籍
マイク・ワトキンソン&ピート・アンダーソン著 小山景子訳
 『クレイジー・ダイアモンド/シド・バレット』(水声社 2001年)
Nick Mason『Inside Out - A Personal History of Pink Floyd』
 (Weidenfeld & Nicolson 2004年)

(3)参考資料:
  Interview and Biography Data:
http://www.davidgilmour.com/news.htm
 Expand Allより2013年の記事が閲覧できます。
http://www.dprp.net/specials/2005_storm/
 ドイツのプログレ情報サイトにある、
 ストーム・ソーガソンのインタビュー。
 このサイトは欧米で活動する
 新旧のプログレッシブ・ロック・バンドのニュースを
 常時配信しています。




Storm Thorgerson and Roger Waters

http://blog.eternalvigilance.me/2013/05/see-you-on-the-dark-side-of-the-moon-rip-storm-thorgerson/





ジョーカーズ・ワイルドとピンク・フロイドの関係






2013-07-29 06:02:45
  「R.I.P. Storm Thorgerson_Pink Floyd "High Hopes"」の記事で
  
「ストーム・ソーガソンの婚約物語」を加筆
2014-04-19 01:37:43
  
「ストーム・ソーガソンの婚約物語」を独立した記事として掲載
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2014-04-22 02:42:19
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