人間とはいかに存在していかに消えて行くものなのでしょう。
その人のあった証拠とは何なのでしょうか。
お久しぶりです。
別にとち狂ったわけではございません。
先年度10月21日。私の母親が亡くなりました。私事ではございますが。
人の拠り所の柱とは人に依ります。
宗教、他人、趣味、仕事。
私は宗教を好きません。私事ですが。
最初期の哲学の潮流を流し込んだものは好きです。
人のあるところを考えたもの。
この世の半ば解決不可能な問題に対して考えることを捨てなかったと言うところです。
しかし、それから派生し、人の世の流れと共に過ぎることにより、人の世の要求を飲み込み、
その流れは甚だ、元の純たる流れの美しさを失っていきます。
好きません。
我が家は、親族に恵まれました。
母がなくなっても私の住むところはなくなりませんでした。
住むべきところかというところについては、今でも半ば疑問ではありますが。
お金についても、母は保険金という形で、文字の通り私の生きる糧を遺してくれました。
ありがたい話です。
母は、私に生きるべき志準や、生きるのに必要な事柄を教えてくれました。
志準。造語です。
意味は察してください。
どれも、私の依り所となるには素晴らしく足るものだと思います。
しかし、足りません。
私は欠けたものはそれに準ずるものにしか埋めることの出来ないと思っています。
人間なら人間。お金ならお金。地位なら地位。名誉なら名誉。
私の家は、母子家庭でした。
父と母はお金のことで揉め、離婚をしました。
母は私を育てるため、市場の仕事で朝の朝から晩の暮れ近くまで働きました。
途中会社が倒産しましたが、その後、他の市場の会社が支店を起こすということで、
その支店の創始のためにヘッドハンティングとでもいいましょうか。
再び働き始めたのです。
私が、小学校2年生、3年生、1年生それくらいの時に、乳癌が告知されました。
後から知った話で当時の私には教えられず、最後まで本人の口から聞くことはありませんでしたが、母は始め、子供のためにと、自ら治療を拒んでいたそうです。
その時の5年生存率でしたか。それが、治療してもしなくても70%と告知されていたそうです。
中学校に上がるまでは厳しいだろうと。
ところが私が中学校になっても高校に入っても母は亡くなりませんでした。
生存率はもう忘れました。
ですが、本当に常人ではすでに死んでいるような数値を乗り越え、最近は回復しているように見えていました。
髪は一度抜け、その後白髪が徐々に生え始め、ウィッグを買い。
かたくなに入院を拒んでいたのですが、突然の体調の不良が数日。
病院へ行く事を拒む母を叔母と無理やり連れ出し、病院へ行きました。
その頃母は、一人では歩けず、我が家であったアパートの階段を降りるとき私は母を背負いました。
誰かは忘れましたが、「母を背負いてそのあまり、軽きに泣きて」という俳句を思い出し、
重たいなと思っていました。
その後、母は検査を受け入院し、一ヶ月ほど私一人の生活が続きました。
赤血球の値が、病院に運ばれたとき、3点台。話すのも不可能なはずなのに歩いていました。
その後、入院中常人では歩まないような病気の経過をたどりました。
原因は不明。様々な数値は上がり下がりを繰り返し、ある時は赤血球1点台。
常人では死んでいるそうです。
ですが、母は生きていました。会話もしました。
癌の腫瘍の数値は上がらず、いずれは回復し、退院できるのではないかという矢先、
母は亡くなりました。
病院の初動の遅さ。あまりにおかしい死亡の過程。臓器が一晩で膨らみ死亡するという原因のわからない死に方。
司法解剖も勧められました。
が、私は残された親族の望まないという声を聞き、それを見送りました。
私の母は死亡の原因もわからずに、心不全という死亡宣告を受けることになったのです。
解剖を拒んだ。これが一番最初の大きな決断だったかも知れません。
その次の決断は、父との離縁でした。
別れた父と再び会い、離婚やその後の様々なことを聞きました。
そして、父が私の存在に縛られるというまるでドラマのようなことを思った私は、父との縁を切りました。
お互いがお互いの人生を生きようと。
私の親族は敬虔な仏教徒です。
母もでした。
しかし私は宗教を好きません。そのことが軋轢を生むこともしばしばでした。
今も尚しばしばです。
宗教は好きません。
私は。自分の取り決めた自分の生き方に対する指針について苦悩することがあります。
人に苦しみを伝えず欠片も見せたくないという自分の捻くれた精神にも腹立たしい限りです。
まとまらないので、これでおわります。
その人のあった証拠とは何なのでしょうか。
お久しぶりです。
別にとち狂ったわけではございません。
先年度10月21日。私の母親が亡くなりました。私事ではございますが。
人の拠り所の柱とは人に依ります。
宗教、他人、趣味、仕事。
私は宗教を好きません。私事ですが。
最初期の哲学の潮流を流し込んだものは好きです。
人のあるところを考えたもの。
この世の半ば解決不可能な問題に対して考えることを捨てなかったと言うところです。
しかし、それから派生し、人の世の流れと共に過ぎることにより、人の世の要求を飲み込み、
その流れは甚だ、元の純たる流れの美しさを失っていきます。
好きません。
我が家は、親族に恵まれました。
母がなくなっても私の住むところはなくなりませんでした。
住むべきところかというところについては、今でも半ば疑問ではありますが。
お金についても、母は保険金という形で、文字の通り私の生きる糧を遺してくれました。
ありがたい話です。
母は、私に生きるべき志準や、生きるのに必要な事柄を教えてくれました。
志準。造語です。
意味は察してください。
どれも、私の依り所となるには素晴らしく足るものだと思います。
しかし、足りません。
私は欠けたものはそれに準ずるものにしか埋めることの出来ないと思っています。
人間なら人間。お金ならお金。地位なら地位。名誉なら名誉。
私の家は、母子家庭でした。
父と母はお金のことで揉め、離婚をしました。
母は私を育てるため、市場の仕事で朝の朝から晩の暮れ近くまで働きました。
途中会社が倒産しましたが、その後、他の市場の会社が支店を起こすということで、
その支店の創始のためにヘッドハンティングとでもいいましょうか。
再び働き始めたのです。
私が、小学校2年生、3年生、1年生それくらいの時に、乳癌が告知されました。
後から知った話で当時の私には教えられず、最後まで本人の口から聞くことはありませんでしたが、母は始め、子供のためにと、自ら治療を拒んでいたそうです。
その時の5年生存率でしたか。それが、治療してもしなくても70%と告知されていたそうです。
中学校に上がるまでは厳しいだろうと。
ところが私が中学校になっても高校に入っても母は亡くなりませんでした。
生存率はもう忘れました。
ですが、本当に常人ではすでに死んでいるような数値を乗り越え、最近は回復しているように見えていました。
髪は一度抜け、その後白髪が徐々に生え始め、ウィッグを買い。
かたくなに入院を拒んでいたのですが、突然の体調の不良が数日。
病院へ行く事を拒む母を叔母と無理やり連れ出し、病院へ行きました。
その頃母は、一人では歩けず、我が家であったアパートの階段を降りるとき私は母を背負いました。
誰かは忘れましたが、「母を背負いてそのあまり、軽きに泣きて」という俳句を思い出し、
重たいなと思っていました。
その後、母は検査を受け入院し、一ヶ月ほど私一人の生活が続きました。
赤血球の値が、病院に運ばれたとき、3点台。話すのも不可能なはずなのに歩いていました。
その後、入院中常人では歩まないような病気の経過をたどりました。
原因は不明。様々な数値は上がり下がりを繰り返し、ある時は赤血球1点台。
常人では死んでいるそうです。
ですが、母は生きていました。会話もしました。
癌の腫瘍の数値は上がらず、いずれは回復し、退院できるのではないかという矢先、
母は亡くなりました。
病院の初動の遅さ。あまりにおかしい死亡の過程。臓器が一晩で膨らみ死亡するという原因のわからない死に方。
司法解剖も勧められました。
が、私は残された親族の望まないという声を聞き、それを見送りました。
私の母は死亡の原因もわからずに、心不全という死亡宣告を受けることになったのです。
解剖を拒んだ。これが一番最初の大きな決断だったかも知れません。
その次の決断は、父との離縁でした。
別れた父と再び会い、離婚やその後の様々なことを聞きました。
そして、父が私の存在に縛られるというまるでドラマのようなことを思った私は、父との縁を切りました。
お互いがお互いの人生を生きようと。
私の親族は敬虔な仏教徒です。
母もでした。
しかし私は宗教を好きません。そのことが軋轢を生むこともしばしばでした。
今も尚しばしばです。
宗教は好きません。
私は。自分の取り決めた自分の生き方に対する指針について苦悩することがあります。
人に苦しみを伝えず欠片も見せたくないという自分の捻くれた精神にも腹立たしい限りです。
まとまらないので、これでおわります。