白状します



子育て中だった



あの頃のじぶんに対して



いまでも



すごく抵抗があって、



許してあげることに時間が



かかっていることのひとつ。




むすめの遊び相手に



わたしが色々口出ししていたこと。



取捨選択していたこと。








誰と遊ぶの



あの子とばっかり最近遊んでるやん



(地味でいじめられっ子のイメージつくやん)



なんで?



他の子とあそび!



また、あの子と遊ぶの?



(良いように使われて、

                   我慢ばっかりするだけやん)



やめとけば?









地味な子とばかり遊んで



子どもがいじめられっ子ぽくみられたらダメ。



子どもがこんな風に意地悪されて



傷ついたらダメ。



馬鹿にされたらダメ。







勝手にジャッジして。




勝手にイメージをつけて。




子どもが一緒にいて安心したり、




楽しかったりするお友達との時間を




奪うことがしょっちゅうあった。




まさに、今でいう毒親。










ネクラな子


内気な子


意地悪な子


卑怯な子


元気な子


明るく聡明な子



この子はこういう子。


だから


良い、悪い。



そんな決めつけや思い込みが



わたしの中にたくさんあって。



認められない



許せないひとがまわりに大勢いた。



これって


つまりは


じぶんがじぶんをダメな人間だという


思い込みと


ダメは悪だという価値観


が前提にあって。


じぶんの中の


内気でネクラなわたし


意地悪で卑怯なわたし


まわりの子の中にある


自分自身を見て、ダメ。


そんな子と一緒にいるなんてダメ。


我が子はじぶんのようになってしまっては


ダメ。


元気で明るく聡明な子。


という自分の思い描く理想の子ども像だけを


良し。


としていた。




ダメが多くて


良しはほんのひと握り。


そりゃあ、生き辛いわ。


そして、


そんな生き辛さを生んでいるのは


自分自身の思い込み。







どんなじぶんでも良いんだ。


内気で、ネクラで、ダメなわたしで


いいんだ。


じぶんは存在しているだけでいいこと、


じぶんの価値をじぶんが


当たり前のように認めていること。


じぶんを当たり前のように愛していること。



この土台があれば


じぶんの子どもが


どんな子と遊んでも、


どんなイメージがつこうとも


どんな意地悪があっても


それでいいし、


何があっても大丈夫なんだ。



と思えるんだろう。





よく


耳にする



みんな違ってみんないい!



これを、


まずは自分自身に許可してあげたい。








なんて、


言ってますが、


最初に


今のじぶんでも受け入れ難いって


前置きをしているってことは…


いまのわたしも


やっぱり


そんな事をしていたじぶんを


許せていないし、


恥ずかしく、


悪いことだと思っているんですよね



そう、このブログを書いて


気づいたこと。



ああ、


まだまだ、


受け入れられないじぶんが


こころにいるんだな。


こうやって、


思い返して、言葉にして


ひとつひとつ受け入れていけば


それでいいか照れ