“学校行きたくない”


前からたまにそう呟くことはあったけどその日のその言葉はなんだか違ってた


軽くもない、重くもない、でもなんだか本能がやり過ごせないようなのべっとした重力のある言葉。


少し胸に引っかかったけど


あらあら、そうなのね

まぁまぁまぁ。


朝の忙しさも相まって初日はそんな適当な返しをしたと思う


けれどその日から毎日のように言うようになった学校行きたくない、という言葉

日に日にその言葉の重みが増していき

今では漬物石のようなどっしりと重たいものが私の胸の奥に常につっかえている状態。


“長い夏休み明けは皆そうだよ”

なんて言葉は娘には意味を持たないのだろう


皆そうだよ の裏にある

皆そうだからあなたも同じように我慢していきなさいねの意図をきっと敏感に感じ取ってしまうから


皆ってなんだよ

今のわたしの気持ちだよ

皆がどうとか関係ない

私をみて


心の声でそう叫ぶことになるはずだ


今、何が大事か?

どう対応していくべきか?


考えろ  考えろ  自分


今見苦しいまでに焦って悲観して戸惑っている私がいる。


実際、私の周りには不登校を経験している子どもたちがわりと多く、その子たち自身やその子たちの親と接する機会も多いから

彼ら彼女がどんな選択をしてどんな過程をくぐってきているのかを知る機会というのは結構あって。


その中には親子共に混沌とした時期を抜け出した家庭もあれば、今もまだ渦中にいながら模索している家庭もあって。


“学校”という場所に行かない選択をしても別な形でのびのびとイキイキと過ごしている子もいれば、

悩んだ挙句学校という集団生活の場に戻っていった子もいる。

期間も選択肢も親たちの対応も当たり前だけど皆さまざま。


いつか我が身にも起こりうることとして見聞きし接してきた分、もし我が子がそういう状況になってもきっと私は驚かない。

腹を括って子どもと接することができるかも。

正直そんな風に感じてた。


でも現実は違った


とうとう来たか


そう感じたのも本音だけど

やっぱりいざ“学校へ行きたくない”と発する娘の悩ましい顔を見たら動揺するし、

なぜ?どうしたら?の焦りが止まらない。


娘が行きたくない、と言い出してから日に日にその思いが強くなり、顔も暗くなり、ついには泣き出してしまう姿になるまでには1週間とかからなかった。


理解あるふりをしていたけれど所詮他人事だったのだなぁと痛感させられる。