7日のこと

いつものように録画して、
いつものようにHDDがぱんぱんになって、
いつものようにDVD-Rに焼こうとしたら、
いつものようにはいかなかった。

もともとだいぶ前からイジェクト押してもトレイがなかなか出てこないようになったころからおかしいなぁとは思っていたんだ。

何十分待ってもベリファイが終わらない。
だったらとベリファイをしない設定にしたら焼きあがったディスクが読めない。

ライティングソフトのエラーメッセージやこれらの症状から、ドライブの劣化と判断。パソコン工房で5000円弱の内蔵型ATAPI接続のDVD±RWドライブを買ってきた。

想定外の出費は痛い。
だが物にも寿命というものはある。それ自体は受け入れざるを得ない。

腹立たしいのは
岡山時代の俺がリース落ちで買ったおんぼろパソコンの延命のために増設したり載せ換えたりしたパーツの中で
このDVD-RWドライブが一番最後に増設した、つまり一番新しいパーツだったということだ。

新しいドライブと交換して状況はなんとか改善した。
付属ソフトの半分はスペックが足りなくて使えない。
そろそろパソコン自体も限界かな・・・

ちなみに交換時に旧ドライブを確認したところ、2006年8月製造となっていた。


HDDに溜まった、めんどくさくて見ていないものも多い、アニメ、映画、たかじん、そんなものを焼きこみながら、
PCに負荷をかけないようにドコモの携帯からW2chで2ちゃんねるを眺めていたとき、その訃報を見つけてしまった。

ライター原田勝彦氏。享年30歳。交通事故にてこの世を去る。

ただでさえ時代に逆行する新しさとは無縁のゲーム雑誌ユーゲーの志を継ぐゲームサイドにおいて、なおも読者を選ぶ毒と自虐のハードボイルド(痩せ我慢)なコラム「ゲームレジスタンス」を連載していた。

俺、この人の文章好きだったんだよ・・・

岡山から心を病んで東京へ逃げたとき、多くのゲームや本やその他もろもろを手放してしまった俺。
以来、その程度で過去の思い出を捨ててしまった俺ごときがこれらをまた集める資格などないとばかりに、自分で自分の読みたいマンガを買うこととレトロゲームを買うことを遠慮してきた。
そんな俺だが、ゲームサイドは買い続けている。なぜか?
後悔し続けるためだ。自身を責め続けるためだ。
そのすばらしい世界のことを知りながら、戻ることを俺自身がまだ許していない。
あのときの自身の行動を、俺は一生赦せないだろう。
贖罪にもならない。ただ自身に罰を与えたいのだ。

あのころほどの情熱はもはや失ってしまい、深いゲーム愛の文章を読むことすらつらい。
つらいのに、読む。
じっくり読むのが楽しいのはわかってる。楽しそうだからさらに欲しくなる。
でも俺はそれを楽しんじゃいけない。欲しがっちゃいけない。
そう自分に言い聞かせながら読む。
楽しんではいけないという制約を課しながら楽しいことをやるという、不器用な懲罰を自身に課して、ある意味器用にこなしていた。

嘘だ。こなせていない。

一番楽しい、そして楽しんではいけない記事を読み飛ばしていた。向き合うことから逃げていた。
それはゲーム関連書籍の多くをもあの時処分してしまったことへの後悔と自責の念からかもしれない。
ある意味で俺は、ゲームサイドという免罪符を買い続けているのだ。

この人のヒネた文章、スパイスの、あるいは毒の効いた文章は、いまこの本をまっすぐ読むことができなくなった俺にとっては安らぎですらあった。
氏のコラム、ゲームレジスタンスだけは、きちんと読んでいた。

6日に買ってきたまま、まだ読んでいなかったゲームサイド10月号。
-----ちなみに-----

その日、俺は禁を破った。
自分の読みたいマンガを自分で買って手元に置くことを、俺はしてはならないはずだった。
「ムダヅモ無き改革」
麻生タローを手元に置いておきたくて・・・
-----閑話休題-----
氏の最後のコラムを読んだ。
本誌のメガドライブ特集にあわせて氏が選んだ題材は、万人に評価された名作でも、知る人ぞ知る良作でも、ある意味愛を以っていじられた最下位帝王や四天王でもなく、その合間に埋もれ忘却の彼方へ追いやられた半端者だった。
たしかに歪んでいる。だが、それも愛だった。
そういう視点を、俺は好きだったんだ。

早すぎるよ。


いつにも増して落ち込みながら、やはりまともに読めずにぱらぱらとページを進めていたら、ライター白川嘘一郎(=神聖バカゲー騎士団長ヨダレ)氏の復帰挨拶ともとれる1ページがあった。

(超意訳)
心が疲れて、闘えなくなった。何も書けなくなって、全てを捨てて逃げ出した。
だけど、不思議な縁でまたライターとして復帰することになった。ありがとう、がんばるよ。
(超意訳ここまで)

でもって、ラストの3段落が、きっと今の俺にも必要な言葉だった。

(以下引用)
 ちゃんとがんばって生きた時間があれば、一度や二度つまづいても評価してくれる人はいる。必ず誰かが覚えてくれている。
 人生にリセットボタンはあるのだ。バグやハマりでどうにも先に進めなくなってしまったら、遠慮せずガンガン押せばいい。
 これまであなたが刻んできたデータは、そんなことでは消えはしないのだから。
(ここまで)

団長!ありがとう。
とりあえずこの号のゲームサイドを、次回のこころの健康センターでの面談に持っていってみるつもりだ。


で、問題は。

俺の過去に頑張って生きた時間はあったのか?
今頑張ってない頑張れてない俺にそれを頼る資格はあるのか?
俺と過去の頑張りを覚えてくれて、評価してくれる人なんているのか?
俺はそこから逃げてきたんだぞ。本当に俺に頼る資格なんてあるのか?
俺は自分が嫌いだ。必要以上に自分を安く小さく見ている。
リセットボタンがどこにあるのか気づかなくて、代わりに電源スイッチを、切れても構わないくらいに消極的にオフにしたがっている。

俺は本当に立ち直れるんだろうか?そもそも立ち直りたいんだろうか?
もしかしたら俺は、ずっとずぅーっと、俺自身を苦しめながら、苛めながら、老衰か心労で死ぬまで心に傷を痛みを刻み込んでいくことを望んではいないだろうか?

死にたいのか、死に至らしめたいのか?
生きたいのか、生きたくないのか?
苦しみたいのか、苦しめられたいのか?
苛めたいのか、苛められたいのか?

俺はいったい何を求めて、今の位置にいるのか?
それがわからない。

担当面接官A氏曰く、俺の行動は、理論が破綻しているのだそうだ。
理論が破綻してまず結論ありきなのは、宗教や信仰と同じなのだそうだ。

意識を持ったまま、何もできない邪魔者の象徴のような岩になって、風化したい。
砂になったとき、先に砂になっていた欠片が、遅かったなと声をかけてきたり。
砂になって、風になって、水に溶けて、地球と同化して、星の寿命とともに漂って、
もはや身体、器を捨てて精神だけの存在になりたい。

それってもしかして、八百万の神の一柱になりたいということかね?

こころが消えたくない、という恐怖だけが、ある。
その恐怖を取り除きたい。なんのために?

一方で、こころごと、消え去るため。
もう一方で、こころを殺して、生きるため。

足掻け、俺。せめて精一杯足掻いて、死ね。