その床屋で見た読売新聞7/7北陸版で気になった記事がふたつ。

混乱だけを引き起こして異例の早さで骨抜きにされたPSE法ネタ。正直者が馬鹿を見たやり場のない怒りがしばらく燻るだろうという記事。もっとも、馬鹿を見ることになろうとも俺は正直者でありたいのだが。
オタクにとっては正直なところ、いくらでも代替物が製造されている家電製品などは問題ではない。
代替物のない指名買いの多くの物が死刑宣告を受けたから愛着を持つ者が怒りを顕にしたのだ。
俺の場合は悔しいことにそこへたまたま二度の引越が重なってしまい、さらにほぼ廃棄に近い形で手放してしまったことが今も悲しくてならない。
特にゲームなんかその規格でないと動いてくれない物の代表格、俺は持っていないがレーザーディスクなんかもそうだね。
物さえ残っていれば失ったものは金で取り戻すことは不可能ではなくなったけど、情熱の炎も吹き飛ばされた脱け殻の俺にはきっと無理だ。

こちらはコピーワンス方式に妥協案という記事。
孫以降のコピーはできないが子のコピーは9回まで出来、10回目には元本が消失するというもの。
つまりはコピー回数で妥協はしつつも記録を永続的に保存することを拒否したというもの。
逆だよ逆!コピーは媒体を乗り換えながら永続的に保存するための手段なんだから!
極端な話データの永続保存さえ保証されればコピーは必要ないのだけど、不慮の事故によっての損失の可能性をゼロには出来ないからコピーに制限を付けて欲しくないんだ。

どっちもに思うのは、おまえらそんなに過去の遺産が怖いのか、正正堂堂戦って勝とう(過去に発表された競争相手と商品の魅力で戦って勝つ)という気概がないのか、ということなのよ。
俺には過去の才能に勝てないからと泣き言云って、一方的にルール違反にして締め出している様にしか見えないんだ。
その結果殺された過去の世代の素晴らしい文化達という構図は、規模こそ違うし失敗したけど「文化大革命」を彷彿とさせると思ったのは俺だけだろうか。


それこそ悪い気を起こせば俺が手放したゲームのコピーを手元に残すことだって不可能ではなかったよ。でも俺にはそんなこと出来なかったんだ。

もう俺は思い出の中に生きます。それが俺の幸せなんだ。現実世界は脳内世界を増補する材料集めの手段でしかないんだ。