人って


どうして


こんな大変な事態まで


忘れることが出来るんでしょうね?


リアクションが


ドンドン 弱くなってきていることを


感じる


地震にまで


身体が慣れてきてしまっているように


感じる


これからが


もっと 大変な時期なんじゃないかな


GW


静かに


この日本を


見ていたいと思います


失望だけはしたくない・・・



少し前の記事だが


紹介します。


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目の前で困っている人を助けたい--。


亡父と同じ志を胸に、


被災地で歩み始めた


新聞記者がいる。


岩手県大船渡市などで


発行する地元紙「東海新報」の


高橋信(しん)記者(23)。


この仕事を勧めてくれた父俊一さん(60)は


県警大船渡署高田幹部交番所長として、


住民の避難誘導を続け津波にさらわれた。


入社早々、取材先の同署で知った父の殉職。


だが避難所を回れば不自由な生活を


強いられた被災者がいる。


「その声を書くことが今自分にできることです」



 生まれも育ちも盛岡市で岩手大に進んだが、


祖父母の住む大船渡市が好きだった。


気さくでおおらかな人たちに親しみを感じ、


沿岸部の就職先を探していた昨年12月。


「受けてみろ」。


東海新報だけを挙げたメールが届く。


「正しい日本語が載っている新聞で勉強しろ」が


口癖の父の勧めだ。


好きな地域やそこに住む人たちをもっと知りたい、


とも思った。


試験を受け内定した。

 入社まで1カ月を切ったあの日、


父は最後まで交番にとどまり行方不明に。


捜しても手がかりさえなく2週間が過ぎた3月28日、


編集局長に「給料は半分か、3分の1かもしれない。


それでも、やる気があるなら喜んで迎えたい」と覚悟を問われた。


東海新報も社員や読者、広告主が大きな被害を受けている。

 むろん迷いはない。


2日後、避難所で食事作りを手伝う地元婦人会の活躍ぶりを


伝える初の記事が載った。


題字を刷新した4月1日付の1面を、がれきの中で真っすぐ


前を見つめる5人の子どもたちのカラー写真で飾った。


「暗いことばかりだが復興させなければ」と


願いを込めて撮った1枚。


入社式もなく辞令を受けただけだけれど、新人記者が誕生した。

 「記事を見たら喜んでくれる」と念じた


父の悲報が直後に届く。


記者の基本「署回り」で大船渡署を訪ねた8日昼、


副署長に「死亡確認」を告げられた。


「見つかったので良かった。仕事を頑張ります、と伝えたい」

 大船渡市の避難所になっている中野公民館。


「必要なものは何ですか」


「生野菜だな。衣服は十分だ」。


責任者に尋ね、答えをメモする高橋記者。


何が足りず何が必要なのか、


それを報じることが、


被災者の助けになると信じて、


赤い小型車で被災地を連日走り回る。


 本社・大船渡市。


陸前高田市や住田町も合わせ


約1万7000部を発行する地元紙。


1958年に創刊、社員40人(うち記者約10人)。


震災当日は、


自家発電でA3判1ページの号外2000部を印刷、


動ける社員総出で避難所に配った。


公式サイトは3月11日で更新が止まっている。


津波を撮影に行った記者1人が行方不明。


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本当にたくさんの犠牲の上に


僕らは 生きている


「明日はわが身」


もっと 人を愛そう

人を 優しく想おう

みんなが 家族

みんなで力を合わせて

立て直そう日本ドキドキ