記憶を失った男が洞窟の中を走っている。

体力も殆ど尽きかけ、肩で息をし、額には汗で髪が張り付き、服も襤褸襤褸。顔も恐怖で引き攣ってもう酷い有様だ。

それでも後方から迫り来る足音が彼に止まる事を許さない。

「あのサングラスの男に追いつかれたら殺される」其れが彼にとって唯一の記憶である。

兎に角逃げる。逃げる。逃げる。逃げる。逃げる…


立ち止まる…

「何と云う事だ」男は愕然とする。

男の眼前に地下水脈の湖が現れ、その行く手を塞いでしまっているのだ。

どんどん足音が近付いて来る。

見るとサングラスの男の手には黒光りする拳銃が握られている。

「考えている暇など無い」のである。

彼は意を決して、地底湖に飛び降ようとする。

其の刹那、拳銃から放たれて弾丸が彼の右足を翳め、彼は小さく呻き声を上げながら、水中に没する。

痛みと疲労で大量のあぶくを吐いた為、非常に苦しかったが、水面に顔を出せば、今度こそ頭を打ち抜かれてしまうことは必至だ。

変に冷静になった彼は、どこか別の洞窟に続く空洞を探さなくては生きる道はない。と考え水中を観察する。

すると…至極澄み切った水中に一カ所、奥が変に歪んで見える奇妙な部分を見つける。

いや、それは透明ななにかでゆっくり近付いて来る。

瞬間、彼の唇に何かが触れる。

温かい…

驚いて、彼はまた沢山のあぶくを吐く。

其のあぶくが当たり、其の透明ななにかの輪郭を一瞬鮮明にする。

それは女だった。透明な、しかしそれでも判る程、美しい輪郭の女性だった。

透明な女は彼の背中に手を廻し、その小さな唇で接吻をする。

するとどうだろう。

接吻をしている間は、息苦しくなく、ガスボンベでもしているように呼吸が出来るのである。

二人は唇と唇を合わせながらゆっくりと湖底迄沈んでいく。

そして彼は彼女に唇越しに問いかける。

「僕はこのまま逃げ切れるだろうか」って。



「僕は最近、こんな夢を良く見るのですが…先生。専門家から見て此れはいったい…」

すると女医は悪戯っぽく頬を膨らませ、

「そうね…女性と愛し合っている時に其れ以外の事考えちゃ駄目よ」と云う。