ブログ開設からの年数とかとは全く関係ありません。。

また、今日の記事は自分の身の上の事について長文のみですの興味の無い方は

スルーして下さい。

 

今年もまたこの日を無事に迎える事が出来ました。

私にとっては19年前の今日5月28日が
 
「生かされた運命の日」

であることを一生涯決して忘れません。

  

「私の生きざま」

を最近ご訪問頂いた方、そしてフォローして下さった方で私の事をよく知らない
皆様の為、そして自分への反省の意味やモチベーション維持の為に生きている
限り、ブログを続けている限り、この事について前ブログから毎年書かせて
頂いております。
 

尚、内容についてお気に召さない方はどうぞフォローを解除して頂いて
結構です。私とはご縁が無かったものと思って常に割り切っております。

 

19年前の今日5月28日、私は交通事故に遭いました。

バイクで片側2車線の国道を走行中に側道から飛び出してきた車と衝突し
その反動で中央車線に投げ飛ばされ、落ちたところを12トンのダンプに轢かれました。

病院に運ばれた時には出血多量で緊急の輸血、肺の一部が破裂そして全身のいたる
ところを骨折、特に両下肢は高度挫滅と呼ばれるどうしようも無い状態でした。
 

そして遠のく記憶の中で医師から

「右下腿の回復の見込みは無いが切断しても良いか?」

との医師からの問いに、それしか選択肢が無いのなら・・・と
遠のく記憶の中で頷いていた様です。。


その後は生死を彷徨っていたようで、夢の中で私の守護霊と言われている祖母が
出て来て三途の川の向こうで「お前がこっちに来るのはまだ早い!!」

と言われてハッとして目が覚めたのは事故から3日後でした。。

 

しかし全身のいたるところが骨折して絶対安静の日が何日も続き、

ICUに何日間も入れられていた事を今でも鮮明に覚えております。。

自分の身体を全く動かせない、もしくは動かそうとすると激痛が走り結局は

寝たきりの状態が3ヶ月以上続きました。。
(特に骨盤が真っ二つに割れ、体を固定され寝返りを許されるまで3ヶ月

掛かりました)

 
もちろん、五体満足で何不自由なかった自分が突然この様な状態になって

自暴自棄になり、精神的におかしくなりそうになりました。

  

「何で自分がこんな目に遭わなきゃいけないんだ!!」

  
しかし、医師からのその後の私の人生・生き方を変える一生忘れらない言葉

 

 

「あなたは運が良いほうです。あと1秒いやあとコンマ1秒早くても遅くても頭や
お腹を踏まれた筈。私は交通事故で何人もその様な悲惨な患者さんを見てきた」


 

私は悟りました。

 

「私は生かされた運命の人間であり、この様な事になるのは宿命だったんだ」

 

そして
 
「神様は辛い事に耐えられる人間に生きる道を選んで下さった」
 

とも(私は宗教団体とは一切ご縁がございません。念の為)

何年か前に白血病を告白した池江りかこ選手も同じ様な主旨のお話をなさり、
ありのままの自分を臆することなく公表し、そしてその病気を克服するばかりか
頑張って頑張って日本の水泳界の第一人者として復活した姿に敬意を表します。

 私はその生かされた運命と言う心の支えがあったからこそ、何十回の手術、
決して言葉では表す事が出来ない壮絶なリハビリにも耐え、車椅子から歩行器、
歩行器から両松葉杖、そして片杖から最後には何も補助具を持ったり付けたりしなく
ても歩けるになり、今日も歩き続けております。



19年目の今日に至るまで色々な事が有りました。。

 

[訴訟]

刑事訴訟 

第一加害者は執行猶予付の禁固刑、第二加害者は無罪
第一加害者は罪の重さを十分認識して

いつも

「時間があるので寄ってみました」

と仰って私の見舞いに来てくれました。
決して時間がある方では無い事を私は知っております。
人柄がこう言うところに現れますね。

罪を憎んで人を憎まず

第一加害者の量刑は重く、会社の処罰規程の対象になる様でした。
その方が処罰を軽くして欲しい為に私のところに来ているのでは無い事は
分かっております。

そこで、その方の勤務先の社長宛に量刑を軽くしてくれる様嘆願書を書きました。
(決して頼まれたとかいう事はありません)
 
結果は懲戒解雇にはならず、かなり軽い処分になったと聞いております。
普通なら自分を貶めた人間に対して処罰を軽くする様な嘆願書など心情的に
書けないと思います。

ただ、私は人柄からその方が善人である事は分かり、人を憎む事は止めました。
今でも年賀状のやり取りをする仲です。


ただ、第二加害者には罪の意識がなく、病院にも1回も顔を出しませんでした。
第一加害者との違いがこのようなところに表れました。

人として許せないと言う気持ちが沸いてきした。

そこで、刑事裁判で裁判官に第二加害者を「厳罰に処して下さい」と被害者として
証人尋問にて証言しました。
結果的には不起訴処分となりましたが、後日裁判長から第二加害者に対して相当な
説教をしていた旨の話が弁護士を通じて伝わってきたのは少し嬉しかったです。

  

民事訴訟 

入院中はベッドに寝たきりでしたが上半身は半年後位には全く普通に戻り始めまして
時間が出来ましたので、損害賠償について沢山の本を読み勉強しました。

しかし勉強していた通り加害者の保険会社からの提示額は低く、弁護士を立てて
損害賠償請求で裁判を行いました。

この弁護士についても、実は加害者の弁護士はいつもは被害者救済を担当する弁護士
の先生でした。その先生から、「貴方は裁判をやった方が良い」と言われましたが、
私には弁護士の先生のツテなどありません。

 

するとその先生が弁護士の先生を紹介して下さりました。
自分と相対することになる弁護士の先生をご紹介いただくなんて事はあまり無いかと
思います。

こういう面でも私は人に恵まれていたと思います。


そして、私の担当弁護士の先生と共に訴状を作り上げ何回かの公判後


私1:9加害者(第一加害者7:第二加害者2))の過失割合を認定

裁判所は私の主張(モチロン弁護士を通じて)を全面的に採用して頂き

さらに判例額を上回る様な和解額をそれぞれの加害者に提示し、

紆余曲折はありましたが全員和解に応じ、1年掛かって裁判が終わり

損害賠償訴訟は終了しました。。

ここで自分としては一区切りになったと思います。
 

[失った事・得た事]

失った事

裁判で賠償金を貰っても、失ったものは沢山あります。
今まで簡単に出来た事が出来なくなってしまった事。

私は右足下腿切断だけでなく、左足にも重い障害を抱えております。
左足の足首から先はほぼ自分の体の一部を使ったつくりもの(形成外科)です。

なので、私の右足(整形外科)と左足(形成外科)の主治医は違います。

足底は筋肉ごと移植した皮膚、足の甲は左足やお尻の皮膚をメッシュ状ににして
移植、親指と小指の欠損など右下腿切断よりもある意味重い後遺症が残っています。

足底は広背筋から筋肉ごと移植した皮膚の為に強度が1/10しかなく、
直ぐに皮が剥け出血してしまいます。さらに神経が通っていない為に足裏が
血だらけになっても気付かず、靴を脱いだ時に血の海になっている事も多々
ありました。
 
足の指も親指と小指を回復の見込みがないとの事で事故当日の手術で
切断しております。
そして足首の関節の可動域も普通の方の1/2しかなく歩く事さえままならないのが
本当の私の姿なのです。

さらに体中には皮膚表面や広背筋を含む皮膚を移植した後の皮膚に醜状痕と
呼ばれる大きな傷跡が残っており、 走る事や泳ぐ事等皆様にとって何でも無い事が
私には難しいのです。
 

その他にも皆さんにとってはごく当たり前の事でも私にとっては出来なかった事が
沢山あります。

 しかし、やらないで嘆くだけと言う考え方は好きでなく、

「やろう出来る!!」
 
と言う考え方が私の根底にあります。

 

(「やれば出来る」はやらなければやらないで済むと言う考え方に解釈が出来て
しまうので使いません)


得た事

1、失効した運転免許の完全復活
 入院中に運転免許が失効してしまいました。

 しかし、車の運転免許は絶対に取り戻したいし、願わくば大好きだった
 オートバイにも再び乗りたいと思って運転免許試験場に向かいました。

尚、途中で障害を持った者は免許を失効したからと言って、免許交付日が
変わると言う形式上の免許再交付だけではありません。

運転適正検査と言う名の特別な試験が課せられます。

この運転適性検査に落ちた場合には該当する運転免許は返納しなければならない
と言う極めて厳しいと検査と言う名の試験でした。

自動車の運転免許はリハビリ病院で疑似的なテストをやっていたお陰で何とかクリア
しました。

しかしオートバイ(大型二輪)は両下肢に障害がある者の前例が無いと担当
審査官に渋られました。。

私的にはバイクのコツを頭と体で覚えていたつもりでしたので、ダメでも良いから
やらせてくれと言うと熱意が通じ、数名の大型二輪の技能試験官立ち合いの下
いくつかの実技審査を行い全部クリアして太鼓判を頂き前例を作りました。

2、JAF 国内A級ライセンス取得

8年ほど前にJAFの国内A級ライセンスを取得しました。
JAFの国内B級ライセンス

(ペーパーテストのみ、但し障害のある者は書類による事前審査有)取得後、

国内A級ライセンスを取るべく申請を行いましたが、障害を持つ者には事前に
書類と実技審査と言う壁があります。

4点式のシートベルトを着用した状態からベルトを外し、ドアを開けての脱出・ドアが
開けられない状態を想定して窓からの脱出をビデオで秒数が分かる様に撮ると言う

課題でした。

これは一人では出来なく、家族の協力を得て動画で撮影しJAFに提出。

家族の協力のお陰もあり無事事前審査に通り、A級ライセンス講習会で講義を受け、

後日富士スピードウェイで行われたJAF公認の競技で無事規定タイム内でゴールし、
国内A級ライセンスを取得する事が出来ました。


重い障害を持つもので国内A級ライセンスを所持している者も数少ないと言われて

おります。

ちなみに普通の方なら国内B級をお持ちであれば国内A級ライセンス講習会兼
JAF公認競技会を行うケースが多く、その日のうちに国内A級ライセンス取得出来る
プログラムがあり、誰でも取れるライセンスです。
 

この様に自分が失いかけたものを少しずつでも取り戻せるように未だに頑張っている

ところです。

そしてこれからも色々な事にチャレンジしていこうと思います。。


[これからも継続してやっていこうと思う事]

この項目は今までは去年から今年まで出来た事ってタイトルでしたが、
今年からはこれからも続ける事についてに変えます。

*スキー

昨年はスキーに行けませんでしたが、また冬が来て天気が良い日に
北海道でスキーをやりたいです。

リハビリの主治医にスキーの話をしたら、あなたの様な両足に障害
(特に右下腿義足)を抱えて普通の板で普通にスキーをする人は聞いた事が
無いと言われました。。

通常の方はストックに小さいスキー板が付いた特殊なものの方が殆どの様です。

バイクの再試験の時もそうでしたが、
前例が無ければ作れば良いものだと私は思います。。
 

YOUTUBEでズラシのスキーでは無くカービングスキーとの滑りの違いを学びました。
頭で覚えても体がついて行くかは別ですが、スクール等に入って基礎を今一度
やり直そうと思います。
尚、私は普通のフロントバックルのスキー靴が義足の為に履けないので
リアエントリーの靴を買って滑る様になりました。
用具を買った以上は止められません(笑)

*オートバイでツーリング

バカは死ななきゃ治らない(笑)

やはり、北海道の原野をオートバイで走る気持ちよさは言葉では表せません。
大げさな言い方ですが生きている喜びを嚙み締めました。
ゴールドウィング(GL1800)で北海道の原野をノンビリ走りたいです。

これからも安全で無理のない範囲でバイクツーリングを続けようと思います。
 
*登山

実は両足が安定しない不自由な者にとって不整地歩行は本当に難しい事なのです。
 
以前丹沢大山で背中から落ちて転んで足や背中を強打して以来、嫁様から一人での
登山禁止とお達しがありました。
年々体力が衰えるので、今年は近場の利を生かして丹沢の色々な山に登ってみたい

と思います。

 

*自転車でツーリング

我が家にはオブジェと化したクロスバイクと呼ばれるロードバイクとマウンテン
バイクをミックスしたような自転車があります。今年も江の島をはじめ私が好きな
河口湖と御坂峠を攻めてみたいと思っております。

 
*英会話力アップ

これまた去年の続きで既に実践しておりますが、東京2020のオリンピックの為に
再び始めた英会話ですが、ほんの少しだけ外国人の話している内容が理解出来る
様になってきており、継続しているからこそ、得たものではないかと思っております。
 

*ゴルフのコースデビュー

こちらは何年も書き続けて実践出来ておりません(笑)

デビューするには、まだまだで、体軸が定まらず、練習場でも右に左に飛んで行き
自分の思い通りに飛ぶ様な状態で無い事は分かっていますが、ゴルフコースは
電動カートで回る所も多いと聞きました。

以前入院中にゴルフを辞めるか足を切断してゴルフをやるか?と言う患者さんが

いたそうです。その方、義足になってゴルフを続けていらっしゃるそうです。
そう言う前向きに生きる方を私は尊敬します。
 


  

[家族の事]

 私の大切な家族、まずは家内の事。

私の生死が分からないまま病院に来て、不安なままの3日間、その後私が目が
覚めた時に見た家内の涙を流した顔、そして退院まで献身的に私を励まし続け
くれた事この先、私が死ぬまで一生忘れません。。
 

特に左足底の皮膚移植手術の前に、医師からは最悪の場合左足も切断するか
もしれないと告げられておりました。

さすがにその夜は眠れなかったのですが、察してか夜中に家内からメールが
来ました。。
 

「大丈夫、たとえ両足が無くて車イスになっても私が色々なところに連れて

行ってあげるから!」

 
との励ましのメールでした。。

明日、自分の両足が無くなるかもと言う精神的に極限の状態でのこのメール・・・、
本当に涙が止まらず、もし私が退院したあかつきには家内にも恩返ししようと

心に誓ったのがこの時でした。

そして子供達には車いすに乗れる様になるまで黙っている様に家内にお願いして
おりました。

それは、父親が集中治療室でいくつもの点滴を繋がれていて、身動き出来ない
状態を幼い子供の目に焼き付けさせたくなかったからです。
 

3か月後に車いすの姿で再会した時子供達は最初はビックリし涙を流しておりましたが
 
「お父さん生きていてくれてありがとう!!」
 
私はここでも涙が止まりませんでした。

 
この子供たちの言葉そして献身的な家内の支えがあったからこそ
 辛い苦難を乗り越える事が出来たと思います。

この様な不運(不幸とは思っていません)な出来事があったからこそ、
我が家は他の普通のご家族より絆が深くなったものと私は思っております。

感謝の気持ち、自分を奮い立たせる為に家族の事は毎年必ず書こうと思います。
 

[仕事の事]

父親として「働かざる者食うべからず」と言うのが私の信念であります。

一生懸命働いて子供達を養うのが父親としての当然の責務と考えております。
それを家族が分かってくれているので私が仕事を終え家に帰ると必ず家族が
「おかえり~」と今でも温かく迎えてくれます。。
 
何よりも嬉しい事です。

子供たちは既に社会人の一員として働いております。

私の親としての子供を養う役目はほぼ終えた様なのですが、
ボケない様に働けるうちは頑張って働き、社会に少しでも貢献できればと思って
今も仕事を続けております。
 
数年前事業縮小による前職からの離職後、路頭に迷う様な状態に陥りましたが、
幸い私を拾ってくれた今の会社。既に拾ってくれた上司は恩返しが出来ないまま
卒業されてしまいましたが、今でも感謝の気持ちを忘れません。

今の会社に就職した時は300名程度の会社でしたが、合併を繰り返し
気が付いたら従業員数万人もいる会社になっていました。

現在も再雇用として働かせて頂いておりますが上司より
年々重責を任される様になりました。
自分にとってやりがいがある仕事が出来て嬉しい限りです。

 

前職にしがみついていたら、再雇用はおろか、60歳で無職になっていたかも

と考えると私はここでも人や会社に恵まれるいると改めて思った次第です。
 

[反省した事]

今まで貯金通帳に見た事が無い金額がある日振り込まれました。。
 
そう損害賠償金が一括で振り込まれたのです。 人間は目の前にお金があると
欲深くなる事を思い知りました。。

最初の頃はそれまでの生活では絶対考えられない、高級な国産車に乗ったり
着るものも高級な服を着たりと夫婦・家族を含めて散財をしておりました。。

しかし、いつしか何かが違う事に気付き、家内とも相談して
やはり自分の身の丈に合った生き方をするべきと考える様になりました。

それまで散財してきたものを全て売却し、現在は当たり前の如くごく普通の家庭と
同じ様にごく普通の生活をしております。。

当たり前の事が当たり前の様に出来なかった自分が今となっては恥ずかしい限りです。
我が家は決してセレブではありませんし、ましてや富豪などではありませんので
念の為(笑)

[旅行の事]

*旅行費用の予算制

これは今も継続中です。

今まで湯水の如く使っていた大切なお金ですが、子供に手が掛からなくなり
時間的余裕も出来てきたので、コロナ禍前までは夫婦で別々に旅行する事も
多くなりました。
 
何故夫婦一緒に行動しないのか?

私と家内では価値観が違います。家内は飛行機等に全く興味が無く、
コンサートなどを楽しむための旅行が主体です。

私はどちらかと言うとまだ見ぬ世界の色々な所に行ってみたいと思っており、
飛行機旅を楽しみながら旅行する事がメインです。

価値観の違い・・・、例えばJ-POPのコンサートチケットに10万円をかけて
何度も観ると言うのが私には理解できない様に、
家内も羽田ーバンコク等にビジネスクラスを10万円かけて
行く事が出来ないと言う事と同じ様なものです。

同じ10万円でもお互いその価値観が違います。

ただ我が家ではお互いの価値観の違いを否定するのではなく尊重し、
今まで人の何倍も苦労して来た分、今を楽しく生きようと言う事でお互いの

決められた予算の中である程度自由に活動出来る様にしております。

私の場合この先いつ歩けなくなるか分からない状態で今を必死に生きております。
家内のあのメールの文章は生涯忘れる事はありませんが、自分で動けるうちに
色々な所に行きたいと常々思って行動しております。
(その点を家内は理解してくれている様です)
 

今回の記事も昨年のコピペの様なものですが私自身の信念は変わらないと

言う事をお伝えしたかっただけです。

 

[ブログの存在]

コロナ禍で、残念ながら例年行われていた海外や国内でのオフ会が中止になって

しまっておりました。

 しかしながら昨年には数回海外でオフ会を開催しました。

ネガティブに物事を考えるのではなく、ポジティブな考え方をする事が大切だと
常々思っており、コロナ禍でも感染対策さえしっかり行えばそれは通用すると思いました。

私の事を分かっていて色々な所でお声掛け下さったり、 旅行に誘って下さったり
する方がいらっしゃる事、そしてお気遣い下さっている事、 

いつも本当に有難く思っており感謝の気持ちで一杯です。

ここ数年沢山のブロガーさんと色々なところでお会いしてお話が出来る事が私にとって
とても楽しみであり、毎回ワクワクしながらその時を待っております。。

こんな私の様な人間でも明るく前向きに生きていくことが出来ます。

いや、生きて行かなければいけないのです。
 
また私はブログでは泣き言や恨み辛みは書かない様にしています。
そんな事を書いても何の解決方法にもならないからです。

人それぞれ考え方があると思いますが、ブログは自分の不満のはけ口では無いと

思っておりますし、そんな記事を目にしたくありません。
 (今回を除いて・・・)
 

私のブログがホンの少しでも皆様の何かのお役に立てる事が出来ましたなら
幸いです。

来年ももし続けられたていたら20年を節目に今日この日の事を

違った書き方にしていこうと思います。

 

私の座右の銘

 

「我が人生反省すれど後悔無し」

  


 

最後までお読み頂きありがとうございました。



 


大魔王