馬ひでの助
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ご報告&おわび。


8月末から9月1日にかけて、仙台近辺の史跡巡り遠征をして、
無事に帰還しました。

が、帰宅した翌朝、母が転倒し腰痛に。

87歳という高齢のため、もう立ち上がることができず、寝たきりとなりました。

ディサービスなど介護補助や施設の利用も考えてるが、母は頑固ですべて承知しない。

医者に連れて行くことも見てもらうこともできず、

結局自分が介護をすることになりました。

というか、こうなることを想定して
定年後、早めにリタイヤした。
今その想定が現実になったわけです。

現在、母の介護11日目。
今まで家事、特に料理は全くせず、すべて母に頼りきりだったので試行錯誤しながらやってます。

今まで、気ままに自由にさせてもらった恩返し、最初で最後の親孝行と思ってこれから何年かかるかわからないが、必死で介護をするつもりです。

そんなわけで、

山城、史跡巡り、街道歩きなど、お出かけはとても無理。

現在は介護の合間に近所のスーパーに買い物に行くのが精一杯。

パソコンを触る余裕もなし。

当分の間、ブログのアップはしません。

コメントも自粛します。

あしからず、です。

とりあえず、手がすいた時に皆さんのブログ、適宜拝見させてもらってます。

これが唯一の息抜きかな…

今まで、我がブログをお読みいただいた皆様、ありがとうございました。

この先どうなるかわからないが、
もしまたいつか、復活する日が来れば、
その時は宜しくお願いします。

ではでは。

馬秀の助

【北国街道歩き30】下板取~今庄宿

2016年10月30日(日)
14時43分、
孫谷川の橋を渡り旧道へ。
「白山神社」
近江では天台宗系の日吉神社が多いが、越前から加賀にかけては白山神社が増えると思う。
そういや、我がひこにゃん市の以前住んでた地区にも白山神社があった。
狛犬、笏谷石かな?
越前の石はなんでもかんでも笏谷石と思い込んでる…
 
蕎麦屋さん。
ずっと歩いてきて久しぶりに店を見た。
時間が無いのでスルーしました。
家がまばらだが、往時は下板取宿として栄えたのだろうな。
 
由来書
所々、消えかかっていて読みにくい。
やはり、虎杖(いたどり)が多く茂っていたので地名になったようだ。
足利義昭、朝倉太郎左衛門が通過、
織田信長は二度目の越前侵略の帰りに通過した、と書いてある。
 
再び橋を渡り
旧道から国道に合流
今庄そば道場まで、あと4.3km
一里ちょっとなので4時頃には着けそうだが、実はかなり体力と脚力が消耗してきた。
長い下り坂は意外に足に負担がかかる。
何を撮影したかというと、
沢蟹です…
 
お地蔵さん。
斜面に鎮座してます
集落が見えてきました。
国道歩いていても面白くないし危険なので、集落内に入ります
旧今庄町のマンホール。
平成の合併で南越前町と改名されたが、マンホールは旧町名が反映されていて、嬉しい。
そば道場しか無いんかい?
と、突っ込みを入れたくなる。
孫谷集落
「山神神社」
バス停があるが、住民しか利用できないようです。
 
二宮尊徳像。
歩きスマホはダメだが、本を読みながら仕事するのはいいのです!
 
数十年前まで、家のお風呂は薪を入れて沸かしてました。
藤堂高虎の伝記を読みながらお風呂がわくまでひたすら薪を放りこんでました…
 
この付近の民家、
玄関に透明の囲いがありテラス状になってる
これは、雪対策なのだと思う。
以前、越後高田城に行った時に、城下町では雁木という雪対策の庇を張り出した構造物があった。
似てますな。
 
 
孫谷生活改善センター
15時30分
国道に合流
 
橋を越えて右手に休憩施設発見!
足がパンパンだったので
しばし足休めした。
 
この時点で今庄宿へ行くのはあきらめた。
南今庄駅を目指します
こちらの玄関のテラスは広い!
集落が消えて山あいを進む
カーブの先に集落が見えてきた
 
16時06分
大門地区
こちらも集落内が本来の旧道だと思うのだが、なぜかこのまま国道を進んだ。
この時、旧道を進んでいれば、この先で迷わずに済んだのだが…
というか、疲労がたまり考える気力が失せはじめてました。
 
気温11度と表示されてるが、
暑い寒いの感覚も無かった
 
夜叉が池、右14キロ。
以前、長浜市高月地区で夜叉が池伝説を述べたが、あの夜叉が池です。
いつか行ってみたいものです。
農協大門出張所
マンホールのデザインが変わりました
シャクナゲを4分割してる。
今庄町は地区ごとにマンホールが違うのかな?
 
日野川の大門大橋を渡る。
いつのまにやら孫谷川が日野川に合流したようです。
実は方向感覚が麻痺していて
今どこを歩いてるのかわからなくなってました。
 
地図をみるがますますわからない
この付近で行きつ戻りつしてたら、
前方に例のそば道場発見!
そば道場で道を尋ねることにした。
すると、右手の公民館に車が入り、夫婦らしき人が降りた。
 
『南今庄駅に行きたいのですが』
と、聞いたら
「南今庄駅は山の向こうですよ。
夕方から山を越えるなんて無理。
この先の農協を右へ行くと今庄駅に行けます。今庄駅のほうが近いし安全ですよ。」
と、教えてくれた。
 
いつのまにやら南今庄駅を過ぎてたようです。
「南」だから、今庄駅よりは近いという先入観を持ってたが、実際は今庄駅よりも遠いのです。
いやそれよりも国道から山越えする道があるかどうか?
 
ありがとうございます、とお礼を言ったら
旦那さんが、
『もしよければ今庄駅まで車で送りましょうか?』
と、言ってくれた。
 
疲労度マックスだったので渡りに船とはまさにこのこと。
せっかくのお言葉、無下にしては悪いと思ったが、
ここで理性がよみがえった。
 
車に乗せてもらったら今まで苦労して必死に歩いてきた意味が無くなる。
目的は全行程、街道歩きなのだ!
 
悔しいが丁重にお断りしました。
 
でも、このありがたいお言葉に感動。
車から降りたのにまたエンジンかけて見知らぬ人を送迎するなんて面倒なこと、
普通ありえない。
近江の人間なんか、そんなお人好し絶対に無い!
それだけに嬉しくて歩く元気が出ました
 
再び先ほどの農協前に戻り北上する
16時33分
『合波バス停』
あいば、と読む
画像は明るくみえるが、実際はかなり薄暗くなってました。
 
しばらく歩いてると国道が渋滞し始めた。
すると一台の車が横に停まり、
『どちらへ行かれるのですか?』
と、聞いてきた。
「今庄駅です」
と、答えると
『送りましょうか?』
と、言う。
 
また、ですか!
越前の人はどんだけ親切なの?
お言葉に甘えたいけど、
「歩くのが仕事なので…」
と、丁重にお断りしました。
 
疲れきって足を引きずるようにヨタヨタと歩いてたので可哀想だと思ったのかもしれないが、
それにしても
峠を越えたら別世界の国に来た気分になりましたよ。
 
途中で集落に入りました
こちらが旧道だと思います
 
16時42分
輪光寺
 
踏切に来ました
目の前の山は燧ヶ城跡だと思います。
 
最後の力を振り絞って進むと
 
16時49分
『文政年間の追分碑』
敦賀からの峠越えは本来山中峠だったが、後に木ノ芽峠越えに変わった。
両方の峠越えと栃ノ木峠越えからの北国街道と3つの道がここで交わる。
いよいよ今庄宿です。
 
すぐ横に
『追分道標』文政16年(1830)
頭部に火袋が付いてるので常夜灯の役割を兼ねてます。
これは間違いなく笏谷石製です。
「右 京 つるが(敦賀)わかさ(若狭)道」
 
反対側は
「左 京いせ江戸道」
 
今庄宿から追分道標に来たら
右へ行けば敦賀経由の西近江路(湖西)、あるいは若狭経由鯖街道で京都へ。
左へ行けば、北国街道経由で京都江戸へ向かう、
というわけですな。
 
文政の道しるべ。
こちらは現代の道標です。
 
ブログの容量制限があるため
宿場内の紹介は後日アップします。
 
そして、
17時04分、
今庄駅到着。
すでに日没になってました
駅舎が修築中で、入口がわからず迷いましたよ。
仮設通路を通り
改札口からホームへ。
当然ながらあたりは真っ暗。
夏ならまだまだ明るい。
歩く時期の選択を間違えた、と後悔する。
 
切符
福井県の名誉のために申し上げますが、
福井県も文明開化して、
現在は北陸本線すべての駅でICカードが使えますよ。
 
以上、途中であきらめかけたが、
最終的には無事に今庄宿に到着できました。
 
まずはめでたしめでたし。
帰宅すると、歩数は
 
44996歩、26.9キロ。
 
前代未聞の数字を叩き出しました!
 
そのかわり
靴下が血に染まっていて
足の指が擦りきれてました。
 
鳥居本宿から今庄宿まで約70キロ、全部歩いて制覇しました
余は満足じゃ!
 
以上おしまい
 
 
Φ(*^ひ^*)ΦΦ(*^ひ^*)Φ
身体はボロボロになったが、五体満足で峠越えの難所を無事制覇できて、
これが大きな自信になった。
 
実は北国街道歩きはここで終了する予定でした。
でもこの自信が
その後の中山道、東海道など諸街道歩きへと間口を広げるきっかけとなったのであった。
 
 
馬《●▲●》助ヒヒーン♪
 
 

【北国街道歩き29】栃ノ木峠~板取宿

2016年10月30日(日)

13時11分、
栃ノ木峠を後にして国道365号線を下る

これより越前国です。


今庄宿まで約14キロあります。
午前中10キロ歩いたので合計24キロ歩くことになる。
ただし、幸いなことにこれから先は下り坂のみ!
体力の負担が少なく、時間もかなり節約できるはず…

真っ直ぐ下るだけならもっといいが、さすがにそうはいかない。
つづら折れですわ。

歩道はない

南越前町上板取の標識

13時40分、ヘアピンカーブ。


若い頃、3台の車で越前廚海岸へ向かったことがある。
他の2台はスピード出しながら曲がっていくが、運転下手な我が輩はずっとブレーキかけながら低速で慎重に下る。
引き離されまいと焦ってスピードをあげると、谷底に落ちそうになる。
いやぁ、恐かったです。

余談ですが、
昔、岐阜県の恵那峡に行った時、ブレーキ踏みながら山を下っていて、レストランの駐車場にバックで入ろうとしたら、ブレーキが効かなかった。
建物にぶつかる直前で、とっさにサイドブレーキを引いたらなんとか停まりました。
山道ではエンジンブレーキを使うべきですね。



かなり下りました

石仏、南無阿弥陀仏と彫ってある


14時05分、


国道の分岐に来ました。


険しい峠を無事越えられてホッとしました。

敦賀から木ノ芽峠を越えてきた国道476号線と合流する。
敦賀市街地まで15キロだなんて…

当然ながら右へ進む


板取地区に入りました

「小屋谷川」


栃ノ木峠からずっと孫谷川沿いを歩いてるはずなのですが…

それよりも「こやんたんばし」という読み方にびっくりポン!

この付近は谷を「たん」と呼ぶのかな?


14時15分、今庄スキー場入口。


栃ノ木峠から1時間かかりました。
我ながらかなり早いペースだと思う。
入口の向こうに
「今庄365温泉」


ここで休憩。
と言っても温泉が湧いてない。
足湯にしてほしいな。
仕方ないので、休憩中止、
再び国道を下る

少し歩いて、ふと崖の上を見たら古い民家のようなものがある。

もしや?

と思い、慌てて引き返した

スキー場の看板


板取宿の表示見つけた。
いやそれより、木ノ芽峠城塞群へはここから行けるようだ。
まだ2時なので登るのは可能だと思うが、今は晩秋。
ぐるっとまわって戻ってきたら日没になりかねない。
ここで野宿するのは嫌だ!
というわけで、今回は断念しました。

スキー場へは行かずに右手へ向かうと門柱あり。


14時24分、

ここが『板取宿』の上木戸跡。
木ノ芽峠越えと栃ノ木峠越えの分岐の場所。
1601年、福井初代藩主結城秀康がここに関所を設けた。
井伊家の柳ヶ瀬番所と同じく福井藩も出女と入鉄砲を取り締まるのが主目的だったようです。
板取宿、幕末には53戸の家があり、旅籠が7軒、問屋が3軒もあり栄えたが、昭和50年頃に廃村となった。

門を越えると石畳道となる。
鳥居本宿から歩いてきて、初めての石畳です。
ようやく街道らしい場所に来ましたよ。


石畳を振り返ってみる



関所跡の表示



茅葺き屋根の家が並ぶ。


入り口の家、よく見たら洗濯物が干してある。
廃村になったハズだが、この一軒だけ居住者がいるようです。

下ると車があります。



福井認定証ふくいの伝統的民家

この看板、若狭熊川宿でも見ましたよ。

【兜造り民家】


兜をかぶったような屋根が特徴。


茅葺き屋根、土壁と柱、板張り


いいですね。
養蚕が盛んだったのでこのような造りになったそうです。


越の国へようこそ。

板取宿のかやぶき民家保存活動をされてる人の記事。
町内の家から毎日通って民家の手入れをされてるようです。


手入れしないと、このように朽ちてしまうのだろうね。

中をのぞいた

残念な有り様です。

下木戸、です。


振り返ってみる

数百メートルの短い区間なので数分で通りすぎてしまう。
あまりにももったいないのでもう一度、上木戸まで戻り、再び下木戸まで下りましたよ。

中山道では、馬籠など石畳の道や古い雰囲気を残した宿場がいくつも残されてるが、北国街道ではここまで全く残ってなかった。
これから先もゴールの直江津までこのような風情のある宿場、あるだろうか?

そういう意味で板取宿、ホントに貴重!
変に観光地化されずにこのままの姿をこれからも維持してほしいものです。

14時32分、国道に合流しました。


こちらには駐車場、トイレがあります。

ここに駐車して木の芽峠城塞群へ行くのがよさそうだ。

でも冬は国道365号線通行止めのはず。

攻めるなら時期的には春先かな?

木ノ芽峠4.2km
下板取宿0.4km

国道から孫谷川の橋を渡って


下板取へ向かいます

それにしても、
木ノ芽峠→木の芽
栃ノ木峠→栃の実
板取宿→虎杖(イタドリ)

山菜を連想させる地名ばかり…

その30に続く

Φ(*^ひ^*)ΦΦ(*^ひ^*)Φ
日曜日の朝、
我がひこにゃん駅のホームでベンチに座ろうとしたら、
財布がある。
どうやら置き忘れのようです。
すぐに改札口に行き駅員に渡した。
駅員は、名前を教えてくれと言ったが、落とし物の報酬、謝礼はいらないと、断った。
手続きのために電車に乗り遅れるほうが困るからだ。

そして、小松駅から北国街道歩きした。
寄り道多いので一向に先へ進まない。
小松市にはあと何回か行かねばならないようで、
金沢城に到着するのは来年になりそうだ…

帰りに、武生駅で電車が10分以上停車。
特急2本を先に通すためです。
青春18きっぷなので、特急に乗るわけにはいかない。
悔しいけど、我慢、我慢ですわ。

しかし、突然、花火が上がった!


たまたま偶然だが、この日は越前市の花火大会があり、武生駅のすぐ近くが打上場所。
大きな音、迫力が半端無い!

 

 

いやぁ、思いがけない余興を見られて感激!
これなら30分くらい停車してくれても良かったな。

思いがけないサプライズ、ご褒美!

これは朝の我が輩のおこないが良かったから、

と思うことにしました、


馬《●▲●》助ヒヒーン♪


 

【北国街道歩き28】余呉町中河内~栃ノ木峠

2016年10月30日(日)
椿坂トンネルを越えて滋賀県最北端の町に来ました
11時6分、国道から分かれて左手の旧道を行く。
 
『中河内』地区です。
この付近は切通の坂の続きでちょっと高台になってる
 
下り坂になる
石垣の上に家が並ぶ
 
あちこちで物音が聞こえる。
あと1ヶ月もすれば厳しい冬となり雪が降れば陸の孤島となる地域。
上天気の秋日和なので、みなさん冬に備えて家の補修をされてるようです。
補修中のおじさんが声かけてきた
『椿坂のトンネル、長かっただろ?どこまで行くの?』
 
「夕方までに今庄まで行くつもりです」
 
『そりゃ大変や!
なんとか夕方までには行けると思うが…』
 
そう言われると、なんか心配になってきたが、頑張って歩きます、
と答えて別れました。
『廣峯神社』
1249年創建。
本来は天台宗の山王宮だったそうです。
つまり神仏習合の寺社でした。
ケヤキの巨木。
 
鳥居が安芸の厳島神社を連想させますね。
控え柱が4本あるので四つ足鳥居、
両部鳥居と呼ばれる。
 
余談ですが、
以前紹介した余呉町大音地区にある『伊香具神社』の鳥居は控え柱がさらに4本あり、全部で8本。
極めて珍しい鳥居で、古代に伊香湖という湖があり湖中に鳥居があったので支えるために8本にしたとか?
 
こちらは雪深い地域なので雪対策としての四つ足柱なのかも?
 
本殿
無事に栃ノ木峠を越えられますようにお祈りしました。
 
高時川、
県境から流れてきてます
中河内地区は高時川が東へ湾曲する部分の少し開けた場所です。
 
中河内バス停
土日祝日は1日3本、
夕方の最終便は前日に要予約。
予約が無ければ、朝と昼の便でおしまい。
ということは、もし前回中河内まで来てたら、帰りはもう一度歩いて椿坂バス停まで戻らねばならなかったのです。
 
よく見ると自分が写ってる…
 
神社の反対側に「本陣」碑
隣に脇本陣もありました。
この付近が中河内地区の交差点で、東の山の中へ行く道が交わる
余談ですが、
江戸時代、参勤交代で北国街道を利用した大名は、
越前福井藩、越前鯖江藩、越前丸岡藩、越前勝山藩、若狭小浜藩でした。
伊部宿本陣肥田家の資料によると
 
福井藩の場合、今庄で宿泊し早朝出発、中河内で昼休み。
小谷城のある小谷宿で宿泊しました。
 

 
小浜藩の場合、三方で昼休み、国吉城のある佐柿で宿泊、翌朝出発し疋田で昼休み、柳ヶ瀬で宿泊した。
疋田経由なので刀根越えですな。
だから、椿坂も中河内も通らない
以前紹介した柴田氏庭園で小休止した後、南下し現在のJR新疋田駅付近で昼休み。
そして刀根越え、玄蕃尾城の倉坂峠を経由し柳ヶ瀬で宿泊した、
ということか?
我が輩も小浜藩のつもりで歩かねば…
 
11時21分、北上します。
これからずっと上り坂。
余呉高原スキー場まで3.7キロ。
県境まで約50分くらいかな?
登りになるので一時間かかりそうだ
中河内集会所
 
金沢藩士の記録によると、
「中河内宿は、蚊帳を使用する必要無し」と記載されてた。
中河内は、蚊も棲息しにくいほど厳しい環境だったのか?
夏でも涼しかったのか?
涼しくて人が少なかったからだろうね。
ちなみに
加賀藩の参勤交代は、北国街道越後信州経由でした。
親不知子不知の難所を通るが、距離と時間を計算すると安上がりだったからです。
前田利家の裏切りの後ろめたさで湖北を通りにくかったわけでない…
ただし、悪天候のため仕方なく湖北へ迂回することもあった。
なお、京大坂方面へは湖西の西近江路を通った。
近江今津付近に加賀藩の領地があったからです。
 
 
「秋葉神社」
経由
少し小高い山の上にある。
ズームして鳥居を見る
この時は知らなかったが、
後で調べたら、神社の裏は「中河内砦」。
櫓台、いくつかの郭跡などが明瞭に残されてるそうです。
いやぁ、またしても残念無念!
鳥居の所まで登ってたら遺構を確認できたかも?
これまた悔しい…
チコちゃんじゃないけど、ぼぉっと歩いていてはいけませんな。
 
隣に西光院。
 
さらに北上
 
高時川の出合橋
右手に廃虚となった施設
 
スキー場の駐車場
料金1000円
ゲレンデまで徒歩6分、
峠まであともう少しだ!
 
民家2件
こちらも廃屋かな?
 
スキー場が見えてきました
峠の祠かな?
 
12時19分
ヤップ余呉高原リゾート到着
中河内から約一時間でした。
ここで昼食にしました。
 
自販機、ちょっとお値段高め。
残念ながら稼働してなかった。
 
駐車場に車が一台停まってるので、
冬のシーズンに向けて準備作業をされてるのかも?
 
食事が終わり立ち上がった時に
あろうことか、自分の足でメガネを踏んでしまった。
食事中はメガネを外して服のポケットに入れてあったのが落ちたのだ。
フレーム壊れ、レンズも傷がついた
このメガネまだ新しかったのに…
とりあえず、予備の古いメガネを持参してたので、それをかけて午後の歩きスタート。
決死の峠越え、何かアクシデントありますわ
 
12時56分、『栃の木峠』
いくつも栃の木があったから、栃ノ木峠と呼ばれるようになった。
隣のスキー場の所に茶屋があり、秀吉からもらった釜があったそうです。
朝倉攻めをする時に秀吉がここに立ち寄って贈ったらしい。
建物は余呉湖畔に移転されたそうです。
秀吉からの拝領釜は木ノ芽峠にもあるとか?
朝倉攻めの時は刀根越えで越前に向かってるはずなので、栃ノ木峠を通ることは考えられない。
だから、木ノ芽峠の拝領釜のほうが真実味ありそうだが…
 
林道マップによると、
ここから木ノ芽峠、鉢伏山城塞群へ行けそうですね…
 
敦賀方面を見る。
上天気で素晴らしい眺望ですな。
 
これより麓までずっと下りになる。
体力的には助かる。
 
しばらく進んで肝心なものを見忘れてることに気づいた
慌てて戻る。
 
『淀川の源』碑
高時川からの水は琵琶湖に注ぎ、瀬田川、淀川を経て大阪湾に流れる。
福井・滋賀県境が水源なのです!
 
孫谷川の栃ノ木橋
この川は九頭竜川の支流、日本海へ流れます
 
福井県南越前町の看板
 
ふりかえって今は一本しか残ってない栃の木を撮影する。
 
滋賀県とお別れ、いよいよ越前国へ。
椿坂集落から栃ノ木峠まで上り坂約10キロ歩きました。
近江湖北編はここでゴール!
2015年7月に鳥居本宿をスタート、1年3か月かけてようやく滋賀県を脱出。
ここまで通算約55キロ、よく頑張りました
ま、寄り道多いので実際にはこの3倍以上歩いたと思うが…
 
次回から越前編になります
 
その29に続く
 
 
馬《●▲●》助ヒヒーン♪
 
 

【北国街道歩き27】余呉椿坂~椿坂トンネル

2016年10月30日(日)
前回から4ヶ月後、今回はいよいよ難関の峠越え2つなので、少しでも涼しい時期に歩くほうがいいと思って秋の終わりにした。
 
9時00分、『木ノ本駅』
バス停に向かったら、本日は祭りのために乗り場が変更になったという張り紙あり。
 
今日は決死の覚悟で出てきたのにいきなりのフェイントに遇い、慌てる。
駅の西側にある木ノ本バスターミナルに移動した。
というか、余呉バスは必ずこのバスターミナルに立ち寄るので最初からこちらに来たほうが良かったかも。
 
乗ったのは自分1人、貸切状態ですわ。
バスの運転手に
「椿坂から峠を越えて福井県へ行く」と告げたら、
運転手さん、携帯で福井県側のバスを調べてくれた。
コミュニティバスがあるとわかったが、残念ながら平日しか走ってない。
 
この時点で、覚悟が決まりました!
峠越えのどこかで倒れたら、それが我が人生の終わりだ、と。
 
9時40分、『椿坂バス停』到着。
八幡神社に参拝し本日の安全祈願をしました。
 
集落を抜けて国道に合流。
いざ、進軍!
 
歩道無し。
車の通行量も少ないけどね。
 
10時03分、
旧国道との分岐に来ました。
車は通行止めですが、歩きは関係無い。
なので
本来なら旧国道を歩くべきだが、本日は長い距離を歩く。
今回は時間と体力を節約するために椿坂峠越えはあきらめて新国道を行くことにした。
前回、膝を痛めてなければ歩いたのだけどね。
言い訳です…
旧国道を右手に見ながら進む
余呉川の中畠橋を渡る。
うど谷橋
大雪崩橋
下を通る旧国道は右手から左手に変わる
旧国道365号線が下に↓
はさばたけ橋
漢字がわからない…
 
旧国道は谷筋から右手方向に迂回します。
本来の街道椿坂はこの谷筋を真っすぐ登ります
 
10時17分、
我が輩は、新しくできたトンネルを進む。
口惜しいので、旧国道を目に焼き付ける
ズームすると南越前まで22キロの看板。
若い頃、マイカーで走りましたよ
椿坂トンネル入口
2012年12月完成。
ネタ本の雑誌みーなの記事は2012年12月に発行されたので、トンネル完成する前だったのか、トンネルのことは書いてない。
ひたすら旧国道を歩け!
と、書いてある。
トンネルに入りました。
両側に歩道があるのでまずは一安心
このトンネル、意外に長くて1842mもある。
出口が見えました
 
出口です
トンネルに描かれた図は、
ザゼンソウかな?
 
トンネルを抜けるのに約26分かかりました。
しかし便利になったものです
 
すぐに
旧国道が合流します。
いつか、旧国道を歩いて椿坂峠を確認したいと思います。
それにしても悔いが残る…
 
なお、椿坂峠は街道のなかで難所中の難所で、本来の旧道は谷筋を真っ直ぐ峠に向かって登った。
そのため斜面がキツすぎて荷車も通れず、坂の手前で荷車を解体して運んだそうです。
福井藩主松平春嶽公も今庄から駕籠で来たが、峠の手前で降りて柳ヶ瀬まで歩いたそうです。(←長浜城歴史博物館の資料より記載)
ほぼ直登りだったようですね。
絵図によると峠の上に2軒の茶屋があったらしい。
 
 
再び国道365号を北上します。
天気良すぎ…
 
左手の側溝に獣の死体発見!
鹿かな?
 
車が猪とぶつかっても大したことないが、鹿にぶつかると車が負けます。
自損事故で泣き寝入りですよ!
 
坂谷川の五位谷橋
 
 
 
道がカーブする
この切通を越えるといよいよ中河内地区です
 
11時02分
右手に湧水あり!
『小峠の冷水』と書いてある。
ネタ本では「己知の冷水」と書いてあるのだが、どちらが正しいのだろうか?
 
ともかくとして、
店、コンビニはもとより自販機も柳ヶ瀬地区の手前から全くありません。
 
それだけにまさに命の水ですわ
その28に続く
 
Φ(*^ひ^*)ΦΦ(*^ひ^*)Φ
青春18きっぷで、初めて堺市に行きました
市役所21階展望台から見た大仙陵古墳(仁徳天皇陵)。
この後、実際に古墳をぐるっと一周しました。
一周約3キロです
仁徳天皇陵古墳
世界遺産に登録されたが、
何の感動も無かった、です…
 
周辺に住宅地が密接してるし、
天皇陵なのでいろいろと制約があり難しいのはわかるが、
見せ方の工夫をしないと外人観光客には受けないだろうな。
 
ちなみに博物館で空撮が見られるそうです。
 
 
馬《●▲●》助ヒヒーン♪
 
 
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