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【北国街道歩き23】余呉東野~全長寺、毛受兄弟の墓

2016年06月26日(日)
北国街道歩き、余呉町東野地区を北上します
 
10時54分、
八幡神社
右手に東野山を見る
ネタ本の雑誌みーなでは、ここから東野山城跡への登山道が記載されてある。
といっても、詳細なルート地図はない。
左手に天満宮の鳥居。
本殿はここから西にある国安の草岡神社。
 
右手に集会所。
その北隣に
『佐味神社』余呉町今市
境内から片岡小学校を見る
現在は余呉小中学校に統合されて廃校になってます。
奥に向かうと墓地がある。
 
今市霊園の端に
『狐塚』
 
解説文によると、
「佐久間盛政の大岩山攻めに東野山牽制のために前進した柴田勝家の陣地跡…」
東野山砦の堀秀政が南下して大岩山、岩崎山へ向かうのを阻止するために柴田勝家が玄蕃尾城から前進してここに本陣を敷いて後方支援をした、というわけです。
約5~7000ほどの兵だったそうです。
東野山砦の真下と言ってもいい場所ですわ。
 
大岩山を攻略した佐久間盛政と合流したら、約一万の大軍で東野山砦を攻略できたかもしれないが、
秀吉本軍が大垣から素早く引き返してきたため、結果的には目論見がはずれて、前田軍の離反もあり佐久間軍惨敗。
 
勝家は陣を撤収して北国街道を越前へ戻ることになりました。
北陸道、東野山方面を眺める
撤退する勝家、無念だったろうね…
国道365号線へ寄り道
西に向かうと全長寺があります。
勝家の身代わりとなった毛受(めんじゅ)兄弟の墓は、全長寺の北奥にあります。
 
国道沿いの石碑、
裏を見ると
毛受(めんじゅ)姓の人の名前ばかり。
 
子孫の一族の人が案内石碑を建てたようですね。
 
行市山登山道への案内板
真夏なので、山に登るつもりなかったので、ここで引き返したが、
今思うと悔しい。
 
実は全長寺は、別名あじさい寺。
満開のアジサイと本尊を見る絶好の機会だったのに、無知な我が輩は見逃しました。
ホントに残念無念。
今週末もまだアジサイが見頃だと思うので行きたいが別の予定あるし、難しい。
う~ん悔しい!
この時はここで引き返して街道へ戻りました。
 
街道歩きは、その24に続く…
 
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
 
2017年10月09日(日)
JRハイキングに参加した
その帰りに全長寺に立ち寄った
『全長寺』
「本堂」
達磨大師像がある。
別名、ダルマ寺と呼ばれる
解説によると、
曹洞宗の寺として慶長2年に開創した。
県内の曹洞宗の寺としては大型の本堂として貴重である。
と、書いてある。
毛受兄弟の菩提寺です。
本堂のなかに入りたかったが閉まってました。
呼び鈴鳴らすも誰も出てこられない。
留守のようです。
あきらめて立ち去りました。
秋だったので、当然ながら紫陽花も見られず、ガックリ。
 
その代わりといってはなんですが、
生まれて初めてナツメを食べました。
民家の庭にあったのでじっと眺めてたら、好きなだけ食べていいよ!
と、住人が言ってくれたのです。
ナツメは夏に芽がでるから、ナツメと名づけられたそうです。
 
全長寺から北へ向かうと
森があり、
辞世の句のようなものあり
『毛受兄弟の墓』
兄は、茂左衛門、
弟は、勝助(家照、勝照)。
2人とも柴田勝家の小姓として仕えた。
佐久間軍が総崩れとなった知らせを聞き、柴田本軍は動揺し、逃走者続出。
兵は3000以下に減ったという。
それでも猛将の勝家は踏ん張ったが、
毛受勝助が、「途中で自害するよりも北ノ庄まで退き、城中で自害するほうが武名を後世に残せる」
と、諌めた。
 
そして、勝家の馬印を受け取った勝助は、300の兵とともに秀吉本軍と戦った。
それを聞いた兄の茂左衛門も駆けつけて参戦。
勝家の退却から約二時間奮戦。
しかし、多勢に無勢、
ついに勝家の身代わりとして兄弟は切腹して果てました。
 
秀吉はその忠誠心に感動し、亡骸をねんごろに葬り、僧に弔いを依頼したそうです。
 
勝助25歳でした。
 
合掌。
 
 
ちなみに、毛受家は
尾張国春日井郡稲葉村が本拠地。
 
毛受兄弟の子孫は尾張徳川家の家臣として存続しました。
 
次回は行市山登頂記をちょこっと紹介
 
馬《●▲●》助ヒヒーン♪
 
 
 

【柴田氏庭園修復経過説明会】敦賀市

2019年6月09日(日)
 
以前、敦賀港から丹後街道歩きをした時に、街道沿いの柴田氏庭園に立ち寄ったが、
残念ながら工事中で入れなかった。
 
しかし、その後
工事途中の説明会があるという情報を入手したので、参加した。
 
『敦賀駅』
なんと、駅に
「SL吉継号の顔出し看板」がありました。
敦賀市と言えば鉄道の町、大谷吉継の城下町でしたね。

先日テレビで映画「関ヶ原」放送してました。
吉継の死のシーンは涙が出ます…
 
駅から歩いて約50分
『名勝「甘棠園(かんとうえん)」』到着
柴田氏庭園の別名で、
小浜藩6代藩主の酒井忠存が、休憩した際に「詩経」の「甘棠の愛」の故事にちなんで命名した。
甘棠とは、りんご、やまなし、やまもも、やまぶどうの類といわれている←wikipediaより転載
 
中門を入る
 
小浜藩主酒井氏は、参勤交代の時に丹後街道を通り、敦賀に来ると柴田氏屋敷で休憩した。
 
柴田氏は、この荒れ地を開墾した豪農。
柴田勝家の子孫ではなくて、楠木正成の子孫だとか?
修復中の建物。
敦賀市教育委員会の中野氏が説明してくれました。
さわやかな人でした。
 
『書院式台』
お殿様専用の出入口で、お殿様が履き物を使用せずに移動できるように駕籠から足袋のまま部屋に上がれる仕組みになってます。
柴田家の人もここを利用することはできなかった。
 ↑唐破風の屋根に復元されてますが、

実は修復前↑は起(むくり)屋根でした。
 
しかし、江戸時代の絵図を見ると唐破風になってる。
おそらく明治以降に改造されたのだろう。
そこで、今回の修復で江戸時代本来の唐破風屋根に戻すことにしたそうです。

鮮やかな銅板葺き。
新しい材木を使って復元してますが、蟇股など一部分は江戸時代以来の物をそのまま残した。
 
書院横のトイレ、殿様専用。
式台の奥の「亀の間」
工事中なので、部屋に入るのはダメ。
完成したらまた説明会を開催するそうなので、その時までお預けですわ。
 
 
柴田家の居宅は昭和時代に改造されたが、昭和30年の豪雪で崩壊。
今回完全に取り壊し、↓廃材
間取りだけは踏襲して、母屋跡地に新しくコンクリート製の見学施設を建てる予定。
枠組みはできてますが、実は水道が通ってない。
なので、水屋・トイレなどへの配管設備などの工事、発掘調査もあるので見学施設の完成は2年後ぐらいになりそうだ、ということです。
 
柴田家の居宅の門。
 
説明会の後、
庭園への門、
庭園を見学した。
庭園、現在は水を抜いてます
枯山水ではない。
建物が復元されたら、殿様目線で部屋の中から見られるようにする予定。
 
庭園に繋がる水堀、背後は土塁。
どうしても館城という視点で見てしまう。
病気ですわ…
あくまでも庭園と屋敷を囲む堀です。
 
 
地元の嶺南ケーブルテレビが、取材に来てました。
NHKのようにたくさんのスタッフがいるわけではない。
 
撮影、インタビュー、すべてこの女性一人。
おそらく帰社後も一人で編集するのたろうね。
嶺南ケーブルテレビのホームページで確認したら
https://www.rcn.ne.jp/
6月12日のニュース動画としてアップされてました。
一瞬ですが、我が輩もバッチリ写ってました。
テレビに出るのはこれが最初で最後か?
 
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丹後街道歩き、前回敦賀港から美浜駅まで進んだので、
今回は、バスで美浜駅へ移動。
美浜駅から丹後街道を歩き、三方駅で打ち止めしました。
 
ほとんど寄り道してないので、このペースなら小浜駅には、この夏中に到着できそうです。
 
 
Φ(*^ひ^*)ΦΦ(*^ひ^*)Φ
 
ところで、北陸本線の新疋田駅と敦賀駅の間がループになってるのですが、知ってますか?
 
今まで何回となく利用してるこの区間、全く気づかなかった。
知ったのは雑誌みーなの特集記事。
 
新疋田駅から敦賀駅へは斜面を下るだけなので真っ直ぐ。
逆に敦賀駅から新疋田駅へは急勾配を上らねばならない。
鉄道が進化してる今もなおこの勾配を克服できなくて、途中にある衣掛山の斜面を利用してぐるっと一周し、高さを稼ぎます。
ほとんどトンネルなので、我々は気づかないが、トンネルが途切れた北西の部分で車窓から敦賀市内を見ることができる。
山に向かってるはずなのに、なんで敦賀市内が見えるねん!
 
と、いぶかる人もあるのでは?
 
時刻表を調べると、
敦賀行きの所要時間が6分~7分、
なのに対して、
逆に新疋田へは、9分~10分かかるとわかった。
ループのせいですな。
 
いやぁ、びっくりポンですわ
 
馬《●▲●》助ヒヒーン♪
 

【近江、東野山砦(左禰山城)】その2

2019年02月17日(日)
 
北郭の土塁の上で昼食休憩後、
午後の探索開始。
北郭は主郭では?
と推測されてるが、はっきりしないらしい。
北郭から背後を見る
広い傾斜地になっていて、
兵の駐屯地と推定される。
田上山砦など秀吉軍の縄張りの特徴と言えるのでは?
 
残雪の向こうを朝、登ってきたのだ
 
土塁と堀を見る
 
手前の下段までが北郭。
仕切り門があってその向こうが南郭。
南郭から堂木山砦を見る
左上に余呉湖が見える
その狭い区間を北国街道が通る。
すべてお見通しの重要な砦だとわかりますな。
 
南郭の枡形虎口
この先は竪堀として下る
林道が分断してる。
林道のさらに先に向かった
なんとか、竪堀に見える
 
堀切に出た
堀切、だと思う…
この向こうは崖。
なので、引き返しました
 
南郭から西郭へ向かう。
西郭は、傾斜地で斜面曲輪と言ってもよいのでは?
段々曲輪のようになって下る
西郭も含めてすべての曲輪が土塁と堀で囲まれてる。
防備がしっかりしてますね。
下部の先端まで来た。
左下に林道が見えたので、
ここから下山することにした。
降りる道を探したが無いので、
無理やり直下りして林道に降りた。
ちょっと危なかったです…
 
軽トラが1台やってきて偵察してました。
林道を約40分ほど歩いて無事下山口に戻りました。
林道には土砂崩れがあり道がかなり荒れてたが、
我が輩の下手な運転でもたぶん城跡遺構の所まで行けると、判断しました。
工事中のため、車両の進入はご遠慮ください、と書いてある。
見かけた軽トラは、工事関係者の車だと思う。
 
現在、たぶん通れると思うが、危ない箇所あるので、車で上る場合は運転に気をつけてください。
余呉小学校のグラウンド。
 
北国街道へ
 
 
以上、おしまい。
 
またいつか登ってみたいものです。
 
ちなみに、
岐阜駅の南の加納城跡のさらに南のほうに
『上茜部(かみあかなべ)城跡 堀秀政生誕之地』石碑がある。
248号線沿い、上茜部バス停の近くに石碑と解説板があるのみ。
城跡の遺構は皆無。
とはいえ、
堀秀政生誕の地なので立ち寄った。
築城した堀資重は近江出身と言われる。
ただし、近江のどこか不明だが、浅井郡の堀かも?ね。
鎌刃城の堀氏と関係あったりして…
 
なんでもかんでも近江と結び付けたがる我が輩です
 
 Φ(*^ひ^*)ΦΦ(*^ひ^*)
 
最近の週末は街道歩きに専念してる。
中山道の他に山陰街道、丹後街道、美濃路、
さらに西国街道にも踏み込んだ。
どれもこれも中途半端でなかなか先に進まない
困ったもんですわ。
帰りのお供は、
缶ビールとおつまみ。
最近の定番になってきた
歩き中毒とアルコール中毒
 
略して、アルアル中…
 
 
馬《●▲●》助ヒヒーン♪
 
 

【近江、東野山砦(左禰山城)】その1

2019年02月17日(日)
東野山砦は、
北国街道歩きにとって堂木山砦とともにどうしても見逃せない砦。
熊は冬眠中だと思うので、ついに登城決行しました。
10時35分、
またまたまたまた…『余呉駅』
駅前にたくさんの人がいます。
後でわかったのだが、JRハイキングのジビエ料理を食べるツァーでした。
知ってたら参加したかも…
 
約40分歩いて
北国街道、「左衛門の辻」
前回歩いた時は草まみみれで近寄れなかったが、さすがにこの時期なのでスッキリしてます。
別名「首塚」と呼ばれる。
賤ヶ岳合戦で秀吉がここで首実検して埋めたらしい。
 
そして、堂木山砦との間に構築された土塁と堀跡付近、
馬防柵が二重に設置されたそうです。
       堂木山砦を見る↓
 
この民家の裏の方から北陸自動車道に向かう。
北陸道の下のトンネルをくぐって山側に出た。
道がぬかるんでいて靴が泥々になった。
 
11時27分
山への入口を見つけた。
畑があったと思われる。
笹の間の道を進む。
↑たぶんこのルートだと思う
 
約5分ほど歩いたら道が消滅したので左手の斜面をよじ登った
土塁のように思える。
もしかして秀吉軍土塁の延長土塁かも?
 
ふと足元を見ると、
「東野山砦跡」の案内看板発見!
ネタ本の雑誌「みーな」に書いてあった登山道は、これかも?
古そうな看板なので、林道ができる前は皆さんここから登ってたのではないだろうか。
ともかく、やった!と思いました。
 
これで、もし遭難しても無謀な直登した、と後で笑われることもない。
堀底道と土塁の道が、右へ左へ折れ曲がって
十数回続いた。
自然の土砂の流路の結果、形成された登山道に違いないが、
自分的には、麓の馬防柵の延長として築かれた土塁と竪堀跡だと、
言い聞かせて登りました。
 
妄想しないと、こんな道なき道、一人で登れませんよ!
 
尾根の下端部に来た。
ここで堀底道消滅。
木に鹿対策のビニールテープが巻き付けられてます。
 
登ってから、後でもう一度降りて確認したら
このまま急な尾根を直登りすれば『西郭』に行ける、とわかった。
 
しかし、この時点では自分の位置がどこなのかさっぱりわからなかったので、
尾根の左手斜面の細い道を登ることにした。
 
そして、
12時03分、林道に出ました。
麓から約30分なので林道を歩くよりは早く登れた、と思う。
でも、やっぱりこのような道は登らないほうがいい、ですな。
素直に林道を登るべし!
林道には少し雪が残ってる。
すぐに城跡の看板が見えました。
 
縄張り図、↑北
こちらは長谷川氏の縄張り図。
 
看板の横に
北郭東土塁から伸びる竪土塁と竪堀。
林道は通行止めだが、なぜか車が停まってた。
ちなみに、この時は誰にも会ってない
 
北郭から竪土塁を見た。
傾斜が弱いので竪土塁というより普通の土塁にしか見えないのは気のせいですか?
 
というか、この竪土塁を林道が遮断してるのが残念。
林道の向こうには土塁無かったのか?
それともこの林道は本来、曲輪と曲輪との間の通路、あるいは堀切だったのか?
 
気になりますな。
 
『北郭』
北郭の東曲輪に
本陣跡の石碑あり
背後の土塁の上で昼食
パン食べた
 ↑雑誌みーなの復元図を借用して加筆

東野山(とうのやま)は、
別名、「実山」「左禰山」と呼ばれ、在地の豪族東野氏の居城だったと言われる。
賤ヶ岳の合戦では、羽柴秀吉方の陣城として堀秀政が布陣した。

いち早く堀秀政がここを押さえたのが秀吉軍勝利の最大の要因だったと言われ、
七本槍よりの活躍よりもその功は大と言わざるを得ない

佐久間信政が無理してでも大岩山砦を急襲することになった遠因ともいえるのでは?

その2に続く
 
 Φ(*^ひ^*)ΦΦ(*^ひ^*)Φ
別に頼んだわけじゃないのですが…
介護保険被保険者証が届いた。

それにしても、介護保険料が高い!
住民税や健康保険料よりも高い…

使わないと損するが、
使いたくないよね…

ちなみに、

明日から我が輩は、安土城考古博物館に無料で常設展示を見られるようになります。

つまり、
年取ったというわけですわ…

馬《●▲●》助ヒヒーン♪
梅雨入り生まれ
 
 
 

【北国街道歩き22】余呉駅~東野

2016年06月26日(日)
 
前回の歩きから約2ヶ月後になる。
 
9時33分、『余呉駅』
余呉駅に来るのも何回目か?
 
実はここから先の中河内までは、
歩いてる途中でメモ紙を無くしてしまった。
なので、画像を頼りに思いだしながら記述します。
北びわこ農協下余呉支店
これより街道を北上する。
左手に鯖すし魚政
少し進んだ右手に
『蓮如上人休憩所』碑
現在はここじゃなくて、公民館が休憩所になってるそうです。
 
『八幡さんの水』
北陸自動車道の東にある八幡神社から水が流れてきてる
蒸し暑い時期なので、水場があると嬉しい。
アジサイが咲いてます。
 
こんな時期に歩いてる我が輩も困ったもんですわ。
農道をゆく
村はずれに
『旧跡郷界一里塚之地』
街道の一里塚ではない。
村の境界線で、今歩いてきた地区が「下余呉」、
この境界線より北が「中之郷」地区。
草が生い茂っていて近寄れない
 
右手に
「中之郷公会堂」
蓮如道をゆく人はここで休憩されてるのかな?
 
公会堂の横に
「旧跡琢噐(器)学校之地」
かつて余呉町役場として使われたそうです。
琢器は、器を磨く→人間をみがく。
おそらく中国の古記、故事から引用したのではないか?
元号もそうですが、昔の学校の名前にも中国の書物がよく採用されたものです。
 
その北に
『鉛錬比古神社』
「えれひこじんじゃ」と読む。
読めませんなぁ。
大山咋神と天日槍命をまつる。
由緒は、
「社伝によれば創祀は崇神天皇の御代日槍族この地に存在し、開発等に貢献した租神の祖先を祀り、江が連なりし処に宮居あり、称して江連之宮と云う古名発祥の由緒と伝う…」
 
我が輩の推測ですが、昔は余呉湖から連なる水辺だったのを日槍族が開拓し、神社を祭ったのでは?
天日槍命は、渡来系新羅の神様。
余呉地域は新羅系の影響を受けた地域です。
 
『日槍塚』
古墳ですね。
神社と関連付けて、
中之郷を開拓した人の墓かな?
 
さらに北上すると突き当たる。
 
T字路を右折すると有名なウッデイパル余呉に行けます。
街道はT字路を左折し、すぐに右折する。
 
左手に「明三(みょうさん)寺」
こちらは、明治天皇が明治11年に休息された。
明治天皇の休息所碑は、北国街道ルートの貴重な手がかりになります。
 
街道から反れるが、明三寺の裏側の国道365号線沿いに
『旧国鉄中之郷駅跡』
国鉄柳ヶ瀬線のプラットホーム跡です。
現在の国道が線路の跡。
廃線歩きをしてる人にとっては、たまらないでしょうね。
柳ヶ瀬駅まで汽車ならすぐだが、歩きは何時間もかかる…
 
街道に戻った
明三寺の少し北の東側に
「観世音道」道標。
伊香巡礼の札所正明寺の道標。
天保6年2月に建立された。
「伊香巡礼観世音」
こちらは新しい石碑。
寺はもう少し北にあります。
本尊の十一面観音は、賤ヶ岳の合戦のなか、なんとか焼けずに残ったそうです。
 
いよいよ東野地区へ入ります。
右手に見えてきたのが、
『余呉小学校』
この手前に東野山城への林道があるが、この時は登るつもりなかったのでパス。
体育館どまりんこ。
ここで、トイレ休憩しました。
道の反対側に
『史跡左衛門之辻』
余呉湖の北の文室地区へ向かう道との交差点。
地元では「さみあ辻」「しゃみあ辻」と呼ばれてるが、
肝心の左衛門さんが何者か?不明らしい。
 
余呉小学校
現在は統合されて、「余呉小中学校」になってます。
 
少し北上して
右手に浄楽寺、
背後の山が東野山のようです。
ネタ本の雑誌「みーな」では、
この付近から東野山城へ登るように書いてあるが、
 
ネットでは、次の八幡神社からの林道を登るのがいい、という記事もあります。
我が輩は、余呉小学校からの林道も八幡神社からの林道もどちらも無視して
別の変な場所から堀底道を直登しました。
東野山城、登城記録は次回!
 
街道歩きは
その23に続く
 
Φ《#^ひ^♯》Φ
賤ケ岳リフト、ずっと休止状態になってます。
そして、ついに近江鉄道が復旧断念。
 
しかし、
事業譲渡された米原市の奥琵琶湖観光が
復旧させ、あらたに山頂に施設をつくり観光事業として
7月から営業再開することになりました。
まずは良かったですね。
 
光秀と賤ケ岳は直接の関係はないけど、
越前との往復で光秀も一度は賤ケ岳に登ったのではないかな?
と、強引に結び付けて
来年の大河ドラマ関連で余呉湖周辺がますます賑わうことを期待します…
 
馬《●▲●》助ヒヒーン♪